スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

サスケは何故、甘ったれなのか?!

 
以下、産経ニュースの【正論】新しい年へ 作家・曽野綾子 どこまで恵まれれば気が済む(http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080109/trd0801090253000-n1.htm)を引用させていただきます。(注:突貫工事の綻びを微妙に修正しました…笑。"二度寝"を楽しむようにご賞味いただけたら幸いです…汗)


■「引き算」人生で落ち込む日本人

≪欠落部分に耐えられず≫

戦争もなく、食料危機もなく、学校へ行けない物理的な理由もないというのに、そして私流の判断をつけ加えれば、今日食べるものがないというのでもなく、動物のように雨に濡れて寝るという家に住んでいるのでもなく、お風呂に入れず病気にかかってもお金がなければ完全に放置される途上国暮らしでもないのに、読売新聞社が昨年12月行った全国世論調査では、30、40代では、自分の心の健康に不安がある、と答えた人が40%にも達したという。

しかも多くの人たちが、不安の原因を仕事上のストレスと感じているという。ストレスは、自我が未完成で、すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われる。

ストレスは文明の先端を行く国に多いのだろうと私は長い間思いこんでいたが、まだ残っている封建的社会にも実はあるのだと或る時教えられた。社会の常識が許しているというので夫が複数の妻を持とうとしたり、同族の絆(きずな)の強い共同生活に耐えようとすると、それがやはりストレスになるという。

私は昔から、自分の弱さをカバーするために、いつも「足し算・引き算」の方式で自分の心を操って来た。

健康で、すべてが十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができるともう許せず耐えられなくなる。私が勝手に名付けたのだが、これを引き算型人生という。それに反して私は欠落と不遇を人生の出発点であり原型だと思っているから、何でもそれよりよければありがたい。

≪完全な平等だけを評価≫

食べるもの、寝る所、水道、清潔なトイレ、安全正確な輸送機関、職業があること、困った時相談する場所、ただで本が読める図書館、健康保険、重症であれば意識がなくても手持ちの金が一円もなくてもとにかく医療機関に運んでくれる救急車、電車やバスの高齢者パス。

何よりも日常生活の中に爆発音がしない。それだけでも天国と感じている。これが足し算型の人生の実感だ。これだけよくできた社会に生まれた幸運を感謝しないのは不思議だと思う。

しかし人間は、教育し鍛えられなければ、このように思えない。子供は幼い時から悲しみと辛さに耐えるしつけが必要だ。平等は願わしいものだが、現実として社会はまず平等であり得ない。しかし不平等な才能があちこちで開花している。それなのに完全な平等しか評価しない人間の欲求は、深く心を蝕(むしば)む。

叱(しか)る先生は父兄に文句を言われるから「生徒さま方をお預かりする営業的塾の教師」のようなことなかれ主義になった。何か事件があると、マスコミは校長や教師を非難するが、子供の成長に誰よりも大きな責任を有するのは、他ならぬ親と本人なのである。生活を別にしている教師など、子供の生活のほんの一部を見ているに過ぎない。

≪人のためを考えること≫ 

躾(しつ)ける親も少ない。子供たちは叱られたことも、家事を分担させられたこともない家庭が多いという。親たちも享楽的になっていて、来る日も来る日も家庭で食事の用意をするという人間生活の基本を見せてやる親も減ったというから、人格を作る努力や忍耐の継続が生活の中で身につかない。だからいつまで経っても、自分は一人前の生活をできる存在だという自信もつかない。この自信のなさが、荒れた人間性を生むのである。

何より怖いのは、子供たちが本を読まないことだ。つまり自分以外の人生を考えたこともない身勝手な意識のままの大人になる。本の知恵はテレビやインターネットの知識とは違う。

戦後教育は「皆いい子」と教えた。ところが人間性の中には、見事さと同時に底なしの身勝手さと残忍さも共存している。このおぞましい部分を正視してそれに備えていないから、思いつきで人を殺す。多分罪を犯したこじつけの言い訳だけはちゃんと自分の中に用意しているのだ。今はDNA鑑定にも何故か黙っているが、昔は指紋登録だけでも人権侵害だと言って大騒ぎした人たちがいた。言うことの筋が通らない。

人間は自分のためだけでなく、人のためにも生きるものだという考えは、すべて軍国主義や資本主義の悪に利用されるだけだ、という人は今でもいる。人は自分独自の美学を選んで生きる勇気を持ち、自分の意志で人に与える生活ができてこそ、初めてほんとうの自由人になる。受けるだけを要求することが人権だなどと思わせたら、今後も不安と不幸に苛(さいな)まれる人は増え続けるだろう。今年は政治や社会がそのことに気づくかどうか。(その あやこ)


僕は、この文章を読んで純粋に感銘を覚えました。

右とか左とか、或は言葉尻を取り上げて突っ込みを入れるような論評がネットのあちこちにありましたが、その行いを下らないと感じました。もし、反論があるとしても、僕だったら、この文章を超える作品を練り上げ、自分の責任で自分のコンテンツとしてアップすると思います。自分の「言葉」で示せば良い。他者の「言葉」を持ち出して批判する行いを、僕は面白いとも、美しいとは思わない。

しかしながら、筆者の曽野綾子さんはかなり裕福で幸せな生活を営んでいるのだと感じます。如何に、平和で豊かとは言え、日本にも貧しく居た堪れない生活を送る人もいると思います。そりゃ世界を見渡せば、もっともっと恵まれない生活を強いられる人が存在するのは事実だけど、曽野綾子さんの「認識」を、手放しで正しいと受け入れる事には些か、臆病にならざるを得ないと考えます。現実に100パーセントマッチしてるとは、僕には思えません。その辺は各自、吟味願います。

何故、曽野綾子さんの文章を取り出したかと言うと、「足し算・引き算」の方式が、響いたからです。これを読んで、先ずサスケの事が脳裏をよぎりました。この考え方って、まんま「ナルトとサスケ」ですから!!曽野綾子さんも『NARUTO -ナルト-』を読んでるのかな?って思ってしまうほど…(笑)。でも、それって「教育論」としての符合なんだろうなァと思います。

生まれた時から何もない闇の中でもがき苦しみながら生きて来たナルトは、全てを有り難いと考えられる「足し算」の生き方を実践しています。これが、ナルトの最大の強みと言えます。「足し算」…非常にシンプルな考え方なんだけど、全く何もないところから始まった人間には、全てが有り難いわけです(何もなかったんですから!)。

ナルトの場合、そりゃもう悲惨な幼年期だったと思います。僕だったら折れちゃう(笑)。きっと…。でも、ナルトは折れずに真直ぐに成長を遂げました。そこが凄いと思う。それこそ、ナルトの持つ「不思議な力」なんじゃないでしょうか。そう言えば、チヨばあが我愛羅奪還編の最後の方でナルトに話してましたね…。

「くだらぬ年寄りどもが作ったこの忍の世界に
お前のような奴が現れてくれて嬉しい…
かつて…ワシのしてきた事は間違いばかりじゃった…
…しかし…最後の最後になって正しい事がやっと出来そうじゃ
砂と…木の葉…
これからの未来はワシらの時とは違ったものになろう……
カカシの言っていたお前の不思議な力…
その力が未来を大きくかえるじゃろう…今までにない火影になって………」

我愛羅に自分の命を与え、今にも絶えようとしているチヨばあがナルトに語るシーンです(31巻/155頁)。この時の、チヨばあのナルトに対する期待は甚(はなは)だ大きいです。チヨばあの改心はナルトによって齎され、その死期を前にした「覚醒」は予言にも似た「力」を感じさせます。そして、ここで、チヨばあが言う「不思議な力」が「足し算」的な生き方(境地)を言うのではないかと、僕は思うのです。

どん底の人生から這い上がって行こうとするナルトと、何不自由ない生活が「うちは虐殺」により一瞬にして崩壊したサスケ。「足し算・引き算」の方式は、ナルトとサスケに綺麗に符合すると思います。そして、ナルトの対極に位置するサスケが「引き算」の考えに捕らわれるから、ストレスを絶えず感じるわけで、それを全くと言って良い程、感じさせないナルトを「ウザい」と言わせてしまうのです。僕がサスケを「甘えん坊」とするのもそれに拠ります(笑)。

サスケは、甘ったれだと思いませんか?

そもそも、僕は子供を育てた経験がないから、「偉そうな事いうな!」と、突っ込まれそうだけど(汗)、僕には立派な人格者に手厚く愛を注がれて育てられた「自信」みたいなものがあるので、言わせてもらいます(僕を育ててくれた人はちょうど「二大仙人」の"頭"と"姐さん"みたいな人です。顔なんか、もう…二人ともそっくりです…涙。その役割まで…それを咀嚼できたのは、自活をし始めてから…それも、かなり後の事ですが…)。極端な話。子供の出来不出来(差別用語?満足不満足と考えてもらっても良いです)は「親」の責任だと、僕は思います。って、言うか…オトナの責任かな(全て曽野綾子さんのコラムにありますね…汗)。

オトナが自分が子供の時に感じた「不安」とか「不満」とか…諸々の淀んだ気持ちを忘れないでいたら、子供が"SOS"を出した時に、即座に救出できる筈です。でも、何故だか知れないけど、多くのオトナは、親は「自分が子供だった頃」を忘れてしまっている…。だから、子供が見えなくなってるんです。子供の声が聞こえないんです。チヨばあもきっとそうだったんだろうな…と思います。それを最後の最後で、ナルトに教えられた。だから、チヨばあの残した言葉は心に刺さります…よね。特に、実際に子供を育ててる(格闘してる?)親御さんの胸には…。

確かに、「うちは虐殺」は悲惨で唐突で、サスケにはお悔やみは申し上げたいが、サスケの一方的とも言える被害者意識には、些か辟易(へきえき)としてしまいます。サスケは独りぼっちになってしまった?そうじゃないでしょう。カカシがあんなに親身になって引き止めたでしょう。ナルトが傷だらけになりながら、血反吐を吐きながらサスケを止めようとしたじゃないですか。なのに、サスケはそれを振り切った。それは、サスケがイタチだけを見つめていたからです。

サスケにはイタチがいるのです。

サスケは決して独りぼっちじゃなかった…。尊敬すべき兄。かく在りたいと、誇りにすら思える人格。賢く、大きく、暖かく、強い…兄。サスケが教えを乞いたいただ一人の存在。それが、イタチです。それは、どんなに挑もうと決して超えられないと思える程の「大きな壁」。それは「安心感」と言い換えても良いでしょう。サスケがどんなに暴れてもはみ出してしまわないくらい大きな「土俵」?

だから、サスケは大蛇丸すら、簡単に殺せたのです。サスケが強いとか弱いとかは別にして、サスケの行いには独善的とも思える強引さが常に付き纏います。その言い訳はいつも「イタチを殺す為」に行き着くんですが、それも口実に過ぎないんじゃないか?と、僕は考えています。有り体に言ってしまえば、サスケはイタチに会いたかっただけなのです!サスケはイタチに自分を示したかっただけなのです。

そして、今、サスケはイタチと闘っています。サスケの草薙の太刀が容赦なくイタチを貫いています。確かに、サスケは強くなりました。それはイタチに「強くなったな…」と言わしめる程に…。そこには、サスケが一心不乱に修行したのも確かにあるとは思いますが、いろんな事を懇切丁寧に教えてくれたのは大蛇丸に他なりません。大蛇丸はサスケの身体がほしかったからでもあるんだけど、サスケは一言でも大蛇丸に謝意を示したでしょうか?

第一、サスケは大蛇丸の行いを嫌悪し、責めていましたが、自分が大蛇丸と同じ事をしている点には頓着していません。よく考えれば、サスケだって大蛇丸と同じくらい利己的に行動しています。自分の欲求の為だけに傍若無人に行動しているのです。それを認識出来ないサスケは未だ幼い。少なくとも、(あれ程までに面倒を見てくれた)大蛇丸に感謝できないサスケは、はっきり言って幼いです。

その考えは、僕の尊敬して止まない(大)作家・司馬遼太郎氏の著書「21世紀を生きる君たちへ」(これは名著です。めちゃくちゃ薄い本ですから、是非ともご一読下さい。司馬先生の「遺書」と言って良い程の、入魂の力作です)で、その根拠を明確に提示しています。謹んで引用させていただきます。

むかしも今も、また未来においても変わらないことがある。
そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、
さらには微生物にいたるまでが、
それに依存しつつ生きているということである。
自然こそ不変の価値なのである。
なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、
水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。

人が自然の中で生かされている「現実」を認識すれば、自(おの)ずと謙(へりくだ)った考えが湧き上がって来る筈です。もし、「神」が存在するとすれば、それは「自然」であると、僕は思います。そして、大きな「自然」の中で、自分が生かされていると、本心で感じる時、人は全てに感謝できるようになると思うんです。つまり「足し算」的に物事を考えられるようになるのです。逆に「引き算」式の考えしかできない人って、「感謝」できない人なんじゃないでしょうか。

サスケは確かに可哀想な経験はしてはいると思いますが、辛さを比べるなら、ナルトだって、カカシだって(分かっていると思いますが、彼らこそ、一生懸命にサスケを止めようとした人達です)、そりゃもう筆舌に堪えない経験をしているのです。サスケの小ささはその「大きさ」を比べているところにあるんです。サスケは自分の存在や境遇を他者との比較で感じているんです。

結局のところ、サスケはイタチに依存しているのです。サスケはイタチを感じる事で自分を認識しているに過ぎないのです。だから、サスケの中には確固たる「絶対」は未だ存在していない。つまり、サスケの真のアイデンティティは未だ確立してはいないと言えますす。強くなり思い上がってはいますが、サスケは未だ一人立ちできていないのです。

サスケは完全な「無」にはなっていない!

「うちは虐殺」で全てを失ったかに見えるサスケですが、サスケは全てを失ってはいない。サスケは決して独りぼっちではないです。サスケの事を自分の事のように心配してくれる人が沢山いる。今も、危険を顧みず追いかけている。それを、サスケが一方的に拒絶しているだけなのです。

何より、サスケにはイタチが居ます。そして、サスケはイタチを求めているのです。常に、サスケはイタチに縋り付きたいと考えるのです。だから、どんなに強さを手に入れようとも、サスケは甘ったれのままなんです。

その現実は、オトナが教えてあげなければならない。だから、イタチはサスケの相手をしているんです…けどね…。それをサスケは気付かないといけない(気付いていないんだろうな…)。でも、僕らがあまり心配する必要はないとも思います。だって、イタチですから…イタチはサスケが望む唯一のオトナなのです。そして、イタチは自分の役割を充分に認識しています。

「最後ではないが聞いてやる」

それが非常に哀しい結果をもたらす事も
僕らは、覚悟しないといけないけど……。


 

『飛燕』 | BLOG TOP | イルカの『涙』の成分

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。