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異議②

 
「うちはの石碑」の三つ巴(基本巴)写輪眼の解読領域に、イザナギの運用ノウハウが記されていたのではないかと、僕は考えています。当然、そこには兄系であるうちは一族の肉体に弟系の細胞を取り込む旨も記されていたでしょう。しかし、全てのうちは一族がそっくりそのまま六道にスペックを上げられるかと言うと、万華鏡写輪眼→永遠の万華鏡写輪眼(たが)があるのでそうは問屋が卸しません。例え素養があろうと基本巴→万華鏡のアップに関しては躊躇を余儀なくされたと思います。そして、これと全く逆の臨床が神無毘橋でオビトからカカシに受け渡された写輪眼の移植でありました。恐らくあの場であったオビトの「眼軸ごと」の補足も件の石碑の情報だったのでしょう。

そして、別々の宿主を見つけた写輪眼は奇妙な運命に吸い寄せられるように、共通の「大切な人」の死を持って万華鏡を開くに至る…。ちなみにオビトとカカシの万華鏡写輪眼の視力低下や失明のリスク等々に関する描写がかなり違うのは、それぞれが有する弟系の細胞のスペックの違いに拠るものと思われます。カカシも有能な弟系の系譜にあるのは確かですが、柱間細胞には及ばないという事なのでしょう。しかしながら、弟系の細胞万華鏡写輪眼失明の時期を遅らせる効果、或いは失明失効させる可能性があったのではないかと、僕は分析しています。そして、その件に関して「うちはの石碑」には記述がなかったんだろうなー…と、これは邪推の域を越えませんが、そう考えています。

何故かと申しますと、そこに六道仙人の恣意があるからだ…としか(汗)。「うちはの石碑」とは結局、一族を踏み台にしてたった一人の六道を再現するシナリオに過ぎないのではないかと、僕は考えています。その酷く迂遠(うえん)なやり方が、親としてはどうなんだろう…と、妙に僕の琴線に触れている訳です(汗)。ところで、写輪眼の文様が巴文様から複雑な万華鏡に変化し、遂にはシンプルな波紋文様である輪廻眼へとその姿を変えて行く様に些か疑問を感じてなりません。しかも、攻撃性に関しては「写輪眼>輪廻眼」であると考えられる点も不自然な感じがします。また、月に投影される無限月読の文様は多重巴文様であり、それが神樹の能力を香ばしく漂わせていると言うか…。

いろいろ考えていると、写輪眼とは十尾の呪いに思えて仕方ありません。例えばナルトのホッペの九尾の髭痣みたいに、十尾の人柱力であった六道仙人にも何かしらの影響があって、それが瞳力を継承した兄系・うちは一族を呪っていたんじゃないかと思えてなりません。そして、その呪いを浄化する為に「うちはの石碑」を遺したのだとしたら、件の石碑に拠って生み出されたたった一人の六道とは、十尾の呪いを完全に浄化した存在であり、新生うちはの希望とも言える存在であろうかとも思えます。その点では将に親心を感じなくもありませんが、余りにも遠回し過ぎて嫌らしい(笑)。しかし、写輪眼十尾の呪いというのなら日向一族の白眼もまた別の解釈があるのかも知れません。

そもそも弟系・千手に何で瞳力者たる白眼の日向一族が傅(かしず)くのか?僕はそれが不思議でした。が、白眼写輪眼弟系が何らかの方法で徹底的に浄化したものだったら…。ま、浄化と同時に殆どの瞳力を失ってしまって、三大瞳力の一翼を担うには些か貧弱だったのはご愛嬌でしょうか(笑)。その点で日向一族が特殊な瞳力を主にするのではなく、瞳力を補助的に活用して体術点穴を活用したチャクラの放出系の能力でその活路を見出したのは賢い選択であったと思います。ちなみに第一部の中忍試験「白眼→写輪眼」の提示がカカシからありましたが、あれは千手のプロパガンダであって、白眼の出自を秘匿しようとする意図が見え見えなんですよ(笑)。

或いは「うちはの石碑」の記述に従って弟系の優れた細胞を我が身に取り込んだ筈の兄系・うちはが逆に弟系の細胞に寝食されてうちはを離反して弟系に寝返った可能性もあるんですけど、それだと十尾の呪いをどうやって浄化したかが見えて来ない…それは千手が日向をどうやって創造したかでも同じなんですけど、千手の医療忍術への執心を考えると何でもありですし、日向一族の閉鎖的な体質や、白眼も移植可能デバイス(霧隠れの青)だった描写も写輪眼との互換性を感じるんです。確かに兄系・うちは弟系の細胞を欲するのをただ指加えて弟系・千手が見てたなんて気持ち悪いので、千手がうちはの瞳力.写輪眼を何とかして取り込もうとしたっていいじゃないかと思います。

何れにしても兄系・うちは一族「うちはの石碑」を唯一の基軸として暗躍していたのだと思います。そして、それを実現したのがうちはマダラであり、多少不格好ではありましたが、うちはオビトだって立派な六道でありました。「うちはの石碑」の意図が単に六道の再誕を促すのか、十尾の呪いを浄化し新生うちは=輪廻眼の一族を立ち上げる為の教導なのかは未だハッキリとはしませんが、ただ盲目的にそれを信じ込む姿に瞳力者としての矜持(きょうじ)を感じないのです。きっと、イタチはそういう部分を批判していたんだろうな…と、何だか今になってしっくり来るのであります。そして、それを導いたのはやっぱだよな…と、僕は独り納得している訳だ…。

さてと…やっと本題に入れますよ。

続きます。

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