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第668話「紅き春の始まり」①

 
<ズボ>(ガイ)

(…チャクラが
死門の点穴にむかっているな)
(マダラ)

<ボッ><ボッ><ボッ><ボッ><ボッ><ボッ>

<ピタ>

<ズズズズ><ズズズズ>


<ズッ>

(第八・死門—)(ガイ)

開門・休門・生門・傷門・杜門・景門・驚門・死門体内門って点穴の一種だったようです。それにチャクラが通って作用(=開門)する事で術者が戦闘力を高めるのが「八門遁甲」忍術大系と言えるでしょう。第一部で中忍試験の前にカカシがサスケの修行に付き合う辺りでカカシも開門していましたけど、もしかしたらガイの開門を写輪眼コピーしたのかも知れませんね。一応、禁術=忍術ですし。もっともカカシはハンパ無いオールマイティプレイヤーなので初歩の開門など自力で開発できた可能性もありますけど…。ガイやガイの父であるダイ…それにリーもですが…チャクラを練る事は出来るけれど、それを忍術幻術として出力する部分で何かしらの欠陥を抱えていたのでしょう。

ガイが死門を開かんとする中で亡き父との関わりを想い出しますが、人の短所をどういう風に受け取るかをダイはガイに説きたかったんではないかと、僕は考えています。日本的にはガイやリーは発達障害に区分されるんじゃないかと思います。彼らは経絡系で練ったチャクラを出力する部分に何かしらの欠陥を抱えていたのではないでしょうか。全くチャクラを練れない訳ではない。しかし、例え「印」を結ぼうともそれが忍術に変換できない特異な何かが彼らには在った…けれど肉体的にはチャクラ加護が在るから、体術は他の忍に遜色なく扱えたのだと思います。ダイはそういう境遇をどういう風に受容すべきかを20年を費やして独自に会得した、実は凄い人だったのかも知れません。

日本的な教育において能力は満遍なく開発されるのが普通とされているように思います。全体的にも飛び抜けて出来る人を優遇するでも無く、まるで植木職人が生け垣を刈り揃えるように飛び出した部分を容赦なく立ちます。そして凹んだ部分は斬り捨てる…。それが日本における「障害」というものを物語っているのではありますまいか。『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラは概ね「歪」(いびつ)なのであります。ただそれが忍術を扱う忍として好都合であるから「長所」となるだけで、ダイ→ガイのラインでそれが絶望的だったので、彼らの選択肢が体術に限定されてしまったのだと思います。ダイやガイは突出=飛び出すのではなく凹んでいたのです。しかし、ダイはそれに凹まなかった(笑)。

そうであるならば、凹んでいない「体術」を磨けば良い。「体術」しかない!!のではなく「体術」がある!!と、ダイは考えられる人だったのでしょう。『NARUTO -ナルト-』の中でそれをある種…奇異な存在として描くのは日本的な教育(論)に慣らされた僕らに「罪悪感」を抱かせる意図があるんじゃないかと、僕は思います。僕らは満遍なくできないとダメだと思い込んでいますから…否…思い込まされて育ちましたから!!よーく考えたらナルトなんて日本的には思いっ切り発達障害じゃないでしょうか。しかし、そんな下らない境遇に諦める事無く、着々と修行を積んで今や「救世主」にまでなってしまった…。今にして思えば、それを対外的に容認させたのは九尾の人柱力の放つ「異端」…。

そして、ナルトとは全くもって反対方向にダイやガイはあって、それがナルトが忌み嫌われるのとは別にバカにされるように描かれているのように思います。具体的にはナルトが畏れられダイやガイは軽んじられるような…。開門の技術とはそういう不器用な忍の逃げ道でもある訳です。しかし、その代償として肉体への負担があります。そして、それは開門を重ねる度に上昇し、遂には「死」との引き換えを要求する…。それ故、忍術においてはこれを「禁術」とした筈です。ガイが死門を開き切った時、ミナトが「なんて…事を…!」と思わず漏らしましたが、九尾事件屍鬼封尽をサラリと発動した「お前が言うな!!」なのであります…が、それとは別に…

これは…「いけない!!」と、僕は考えるのです。

続きます。


  

第668話「紅き春の始まり」② | BLOG TOP | Spring has come!!(140316)

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