スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自来也は何故、”見得”を切るのか?

  
「怒りに溢れた血の涙ァ!
三忍語りて仙人に!
妙木山の蝦蟇妖怪!!
自来也様たァ~<うぐっ…!>」(自来也)

自来也が雨隠れに潜入してペイン/初代・畜生道と戦闘に入る前(第41巻/94頁)、自来也は口寄せでガマケンさんを呼びつつ”見得切り”を披露しています。歌舞伎では役者の見せ場として設けられますが、戦闘の前にワザワザ自分から自己紹介なんて…(笑)。忍術名の詠唱(えいしょう)でもちょっとアレかな…と思うのに、自来也は相当余裕あるんかしら…と思ってると、転んでるし(笑)。自来也はその前に「アンタはオレからすれば成長しきれてない小さな存在だ」(畜生道)と、かつての弟子だったであろうペイン(輪廻眼=長門?)メチャクチャ失礼な事を言われてて腹に据えかねてたのもあるしね(笑)。

でも、ま…ムエタイの試合前の変な踊りとか、ラグビーのオールブラックスの試合前のダンスとかと同じように儀礼的な意味合いがあるのでしょう。或いは威嚇(威嚇になるのかな…笑)の為。この期に及んでも、どう見ても余計な”見得切り”に拘るのは自来也にはそれなりにポリシーと言うものがあるんだと思います。…で、なければ、戦闘に直結する忍具の準備とか、チャクラを練り込んだりする筈なんですよね。インディージョーンズのハリソンフォードだったら、間髪入れずにチャカで弾く様な「間」を一応、ペインも(呆れてたのもあったけど…)待ってましたから、その姿には訴えかけるものがあったんだと、僕は思います。

「そろそろワシの出番ですの!
戦闘前の見得切り”仙人バージョン”
お披露目と行きますか!」(自来也)

「ここからは
忍術改め仙術の!!
光背天蓋仰ぎ見る―!!
自来也豪傑―…<うぐっ!>」(自来也)

「耳元でギャーギャー
うるさいわい!!」
(フカサク/シマ)

自来也は懲りずに仙人モードに移行した時も”見得切り”に挑戦してましたね(第41巻/137-138頁)。でも、それを身内のフカサクとシマ…二大仙人に邪魔されています(笑)。この時、フカサクとシマは口を揃えて「うるさい」と苦情を申し立てています。歌舞伎の”見得切り”も相当、息んで腹の底から響く様な声で口上を述べますから。多分、自来也の”見得切り”も両肩の二大仙人にはかなりの騒音だったものと思います。自来也はそれをこれから生死を懸けた闘いの前に度々、やろうとしてた訳だ…。しかも、最初から全力で行く決意のある「仙人モード」でも”仙人バージョンの見得切り”を用意していたとの事…。

時が時。事が事…だけに、それは単なる伊達や酔狂ではなかった…筈で、やっぱ自来也は命懸けで”見得切り”をしてたんだと思います。忍にとって「戦闘」とは命の取り合いに他なりません。その命の奪い合いの前に不必要にも思える”見得切り”に拘り、それを織り込もうとしたのには、自来也がどこそこの某で、どんなにすっごい忍なのかを示す事が自来也には大切な行いであった…と言えると思います。だから、仙術だの、仙人だの、言わないで良い事まで言っちゃう。プロフェッショナルであればあるほど、秘密の類いは伏せますからね。それを言うのは自来也自身が如何に凄い忍かを伝える必要があるからなんだと思います。

何故なら、自来也と闘うと言う事は相当高い確率で死んでしまいますから…。自来也が”見得切り”をすると言う事は、そう言う事なんです。何せ、五十数年もそうして来た訳で…自来也はこうして殺し続けて来たとも言えるから。でも、それは血の涙を流し続けて来た結果でもある。それが自来也の「隈取」(くまどり)が描かれる理由です。自来也が”見得切り”に拘るのは、これから殺す相手に、自分が如何に大した忍かを理解してもらわねばならない強迫観念みたいなものがあったんではないでしょうか。その努力と木ノ葉強襲で見せた…素っ気ないまであっさりとシズネやフカサクを殺めたペインの愛想なさが際立ちます。

「………
なんで人は…
人のために命をかけたり
するのかなぁ…」(ナルト)

「……」(イルカ)

「人間が一人死ぬ…なくなる
過去や今の生活そしてその未来と一緒にな…
たくさんの人が任務や戦争で死んでゆく
それも死ぬ時は驚くほどあっさりと…簡単だ
ハヤテだってその一人だよ………
死にゆく者にも夢や目指すものはある…
しかし誰にもそれと同じくらい
大切なものがあるんだ
両親兄妹友達や恋人里の仲間たち
自分に取って大切な人たち
互いに信頼し合い助け合う
生まれ落ちた時からずっと大切に思ってた
人たちとのつながり
…そしてそのつながった糸は
時を経るに従い太く力強くなっていく…
理屈じゃないのさ!
その糸を持っちまった奴は
そうしちまうんだ…大切だから…」(イルカ)

三代目の葬儀でのイルカ先生の長台詞(第16巻/86-87頁)。命は儚い存在であるけど、果てしなく重く大切なのです。無限に重いと言える。重さが無限だから、一つでも沢山でも変わらないのです。一つの重さと沢山の重さが等しいのです。だから、その命を奪おうとするペインの「痛み」が提示する「痛みの大きさ比べ」みたいなのが、僕らには無意味に感じられるのです。自来也だって闘うからには殺して来た筈です。殺して来たからこれまで生きて来られたのだから。そして、同時に自来也は命の重さを知っている。尊さを知っている。だから、せめてこれから殺される相手には”見得切り”をして、如何に凄い忍の手にかかるのかを教えたかったのです。

忍でなくても、生きる事は闘いですから、そこに忍術が介在しなくても、仕事や生活で奪い合い、傷付け合う事には変わりないです。「座って半畳。寝て一畳」のスペースは最低でも人は消費します。一人の人が立つ位置には他の人は立てません。それに生きるには他の生き物を食べなければなりません。植物であれ、動物であれ、人はそれらを殺して自分の生を維持しています。それは生存と言う競争の一つの貌です。必然です。だから、そこに善悪は無い。それは木ノ葉とペインを善と悪に割れられない理由でもあります。自分が生きる…と言う事と真摯に向き合うならば、闘い…何かを殺す…と言う事を、人は受け入れなければならないのです。

命とは儚い。脆い。呆気ない。そして「死」は突然にやって来る。しかし、一方で命とは図太く、狡猾です。それは命が重く尊いからです。お父さんとお母さんが愛し合い、命が産み落とされる。目の中に入れても痛くない…「命」がアナタたちです。お父さんとお母さんが自分達の命の他にアナタたちの命を育む為に、日々、闘っている。生きている。それは何より、アナタたちが大切だからです。命は何よりも素晴らしいのです。尊いのです、しかし、先にも言ったようにそこには生存と言う競争が存在する。つまり、闘いがあると言う事です。それは血の涙を流さねばならないと言う事です。悲しいけどこれが「現実」です。

人の命は他者の命の上に在るとも言いました。そして、命と命は「絆」で繋がってるんだから…そこからは「感謝」と言う気持ちが生まれて来ると思います。ペインの闘いに嫌悪感にも似た拒絶反応があるのは、その気持ちが希薄だからです。ペインが何ぼ強者とは言え、ああもあっさりと命を奪うのは命の重さや尊さから乖離した「痛み」に心が捕われているからです。心に「感謝」が無いから、命を奪われた痛みだけが残る。「感謝」がそこにないから、自分が生きている事が「痛み」でしかなくなっているのです。それとは反対に、自来也は命の重さや尊さに敬意を感じ、自分自身を示した…多分、それが自来也の”見得切り”だったんだと思います。

「…………
うん…なんとなく
オレにも…分かるってばよ…」(ナルト)

それで良いと思う(第16巻/87頁)。命は重く尊い。そして、愛されずに生まれた命も無い。望まれない命も無い。全ての命は素晴らしい。それを人は無意識に感知しているのです。だから、一生懸命なのです。遮二無二…生きるのです。闘うのです。どんなに惨めでも、辛くても、悲しくても人は生きるのです。生活と闘ってる人も居る。仕事と闘ってる人も居る。”病”と闘ってる人も居る。人が生きる事はそれ自体が暴力であるとも言える。それでも人は生きなければならないから、その心の何処かには感謝と言う謙った態度が必要になるのです。だから、自来也は”見得”を切るのだし、僕らだって手を合わせて「頂きます」と言えるのです。

そして、闘いは続きます。人が生きる限り…。それが辛い時もあります。楽になりたい気持ちになるときだってあるでしょう。でも、そこで闘いを辞めるのはいけない。何故なら…人は生きねばならないから。命とは重く尊いから。素晴らしいから。繋がっているから…。決して生きる事を躊躇ってはいけないのです。決して闘う事を後ろめたく思ってはいけないのです。同時に、他者に対する感謝や敬意を見失ってもいけない。他者の命も同じように重く尊く素晴らしい事を忘れてはいけないのです。みんな一生懸命、生きているのだから…。生きる事は光に満ち溢れ、命は清らかでキラキラ輝いているのです。だから、生きる事を疑ったり、躊躇ったりしてはいけないのです。どんなに辛くたって生きて欲しい!!

それが「諦めないド根性」なんだと思う。
思い切り威勢よく”見得”を切って欲しい!!

”病”と闘う「我が友」に贈る…
ナルト×ジャンキー ケルベロス




第438話「封印破壊!!」 | BLOG TOP | それでも未だ心配してしまう人の為に…(まっカカ…其の余)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。