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「アンタ達はいつ己を捨てた?」


「やもしれぬのでは困るのだ
ワシは忍の世界を守るために
どんな手でも使うつもりだ

この世界は一つになるべきなのだ
かつて初代火影柱間が一族をまとめて
里を創ったように

今度は里をまとめ忍世界を一つにする

話し合い
この忍の世界が一つになる事はない…
時間をかけて道徳的にやっていては
何も変わらん
いずれは”暁”に
忍世界を潰されてしまうだろう」
(ダンゾウ)

理想を実現するには
時間がかかるもんじゃぜ
焦れば周りが見えず…
失敗を引き起こす…
今のお前だ
まあ所詮
そんな理想は無理な話じゃぜ!

よかれと思っても
結果
不信を生み
わだかまりを生み
憎しみを生む」(オオノキ)

「ダンゾウ…
今はお前の言っている事すら
信用できん」
(オオノキ)

第461話「雲隠れVS”鷹”!!」の五影会談場。雷影がシーとダルイを引き連れて、勿論、雷影の”どこでもドア(笑)”なれば、眼前の壁には大穴が開き…。残されたのが我愛羅、オオノキ、ダンゾウ、水影とその従者達。それに鉄の国のミフネとオキスケ、ウラカク。ダンゾウの写輪眼(うちはシスイのもの)によるミフネの操りが発覚し、ま…それに盗人猛々しく持論を展開するダンゾウがちょっと痛々しかったです(笑)。でも、ゲロゲロのワルだとばかり思ってたダンゾウにも、ダンゾウなりの志があり、ダンゾウの一見大ピンチにも焦らない態度には後ろめたさが感じられません。そして、忍として唯一ダンゾウを責めるのがオオノキでした。ただ、責める…と言うには語弊があるくらいにオオノキにはダンゾウへの理解がありました。

「理想」とか「よかれ」とか…ダンゾウのぶち上げる「忍界の統一」なんて大義を寧ろ、擁護(ようご)?しているようにも思えます。ダンゾウが心配するのは”暁”の存在であり、明らかに「忍界VS”暁”」をイメージしています。確かに、”暁”の目的はペイン(長門)曰く「世界を征服する…」(第36巻/184頁)でしたし、世界中の戦争をコントロールし「大国の”忍里”というシステムを崩壊…」(第36巻/183頁)とも明言しています。つまり、”暁”とは柱間の創設した「一国一里」=「忍のシステム」をぶち壊そうとする集団な訳です。「忍の闇」と怖れられた…そんな「有名な闇」もちょっとアレかな…と思うんですが…ダンゾウなれば、どこからか聞きつけたか、思い当たり、”暁”に危機感を抱いていたのだと思います。

ダンゾウは現体制=「一国一里」にも不満がある訳で、”暁”もシステムの不備を衝いているのもまた事実であり、ダンゾウなりに忍界の行く末を深慮遠謀した末、新しい「忍のシステム」を構築する必要性を唱えているのです。世界が一つになる…今で言うならば「国連」みたいなものでしょうか…否…ちょっと違う…共同体…それも世界規模の共同体を拵えようとしているようです。それは、社会の成熟(ゲマインシャフト→ゲゼルシャフト)をも意味し、血縁単位の一族から成長してきた忍の歴史を考えれば、学問的には非常に理に適った進化発展と言えると思います。善し悪しは別にして、これも「パラダイムシフト」の一例です。そして、これがダンゾウのガチガチの合理主義が導き出した答だとも言える。これが忍界にとって正しいか否かはさておき、ダンゾウなりの大義である事は確かです。

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト:テンニースは、人間社会が近代化すると共に、地縁や血縁、友情で深く結びついた伝統的社会形態であるゲマインシャフトからゲゼルシャフト(Gesellschaft)へと変遷していくと考えた。ゲゼルシャフト(Gesellschaft)は、ドイツ語で「社会」を意味する語であり、テンニースが提唱したゲマインシャフトの対概念で、近代国家や会社、大都市のように利害関係に基づいて人為的に作られた社会(利益社会)を指し、近代社会の特徴であるとする。ゲマインシャフトとは対照的に、ゲゼルシャフトでは人間関係は疎遠になる。日本においては、労働集約型の農業を基礎に「協働型社会」とも呼べるものが形成されていたといわれる。これは産業革命、工業化のプロセスに従って企業共同体へと変貌したと言われる。しかし経済のソフト化に伴いそれが崩れつつあり、日本の歴史上において最も激しい変化を経験していると言える(ウィキペディア「共同体」引用)。

ダンゾウとオオノキは知らない仲じゃないようだから、オオノキにはダンゾウの言いたい事がこの場に居る誰よりも解った筈です。その気持ちがオオノキの「よかれ」と言う言葉に集約されています。”暁”と繋がり、利用する政策に転んだオオノキだから偉そうな事は言えないだろうけど、このまま”暁”を放置していては忍界そのものが危うい事も解っていたのでしょう。多分、オオノキは”暁”と連係、或いは統合を視野に入れた思惑があったんではないでしょうか。さすが、「両天秤」と言うところか(笑)。ま…オオノキの立ち位置はアレだけど、ダンゾウの大ピンチに<シーン>とするよりも、物事の複雑な裏側を周囲に展示する事で事態をある程度、沈静化させようとする配慮だったのです。オオノキの「信用できん」は優しくもある。


「信用があろうとなかろうと…
結果は必要だ」
(ダンゾウ)

「それが世界
それが人間だとするなら未来はないな
分かち合う事
信じる事…

それを止めたら世界に残るのは
恐怖だけだ

道徳を考慮しないやり方や諦めは
今のオレにとって
受け入れ難いものになった」
(我愛羅)

「難しい事を簡単に言うの…
を治める事を
まだ何も知らぬガキが…」(オオノキ)

そして、お話は我愛羅に移って行きます。ダンゾウとオオノキのやり取りの中で、我愛羅は世知辛(せちがら)い現実を感じた事でしょう。自らの陰惨な過去も思い出しています。我愛羅の内部的には「…今ならアンタの言ってた事も少し分かる気がするよ」(第35巻/95頁)のアスマの気持ちだったのかと思うと、ちょっと胸の奥が<ザワッ>っとなりました(笑)。我愛羅はダンゾウの言う「結果」を自分に重ねています。我愛羅は砂隠れの切り札=人柱力…ぶっちゃけ、生体兵器でした。我愛羅は当時、それを憎み…歪んでいましたよね。守鶴の制御が無理っぽかったもんだから、暗殺の危機もあった…(汗)。我愛羅の「心の闇」には父・風影への不信感(=愛がない)が大きく影響していたのは揺るがない事実でしょう。

しかし、その「闇」は木ノ葉崩しで殺り合ったナルトによって払拭される事になります。我愛羅の言う「分かち合う事」「信じる事」とは、ナルトが示した我愛羅に対する理解そのものであり、それを土台に我愛羅は「己」自分の力で見出したのです。きっと…最初は我愛羅も朧(おぼろ)げで、不確かで、認識すら怪しかった筈です。それでも我愛羅は見えざるモヤモヤと必死に闘った筈です。時間を要した…。我愛羅は必死に自分を立て直したのです。「一国一里」が世界のスタンダードなら風影の就任時に上忍衆の承認も必要だったろうし、「力」のみで里を統べる事ができないのはダンゾウでも証明済みです。つまり、我愛羅は誰からも認められる「徳」を木ノ葉崩し以降、第二部が始まるまでの間に培って行った訳です。

「今のオレにとって
受け入れ難いものになった」
(我愛羅)

我愛羅の内面の穏やかな変化が、この一言に色濃く滲んでいます。リアルなら成人までの20年間程度のスパンで、親の庇護の中で成し得るところを、我愛羅は2~3年で自分一人でなし得た訳だから、微分すると断然、勾配は急激なんだけど、それでも「穏やか」と言わせて頂くのは、密度を考慮してるからです。そこには並々ならぬ我愛羅の努力があった筈だから…。五影会談なんて場所で、ダンゾウやオオノキ、雷影の海千山千を向こうに回して一歩も引けを取らなかった我愛羅なれば、常人には想像もつかない濃密な時間を過ごした…時間軸の目盛りが違うのです。その中で我愛羅は穏やかに成長した=「己」を獲得したのだと、僕は考える訳です。それが我愛羅の落ち着き払った雰囲気を作り出している…。


「今のうちに
聞きたい事があったら何でも質問しろ
先輩として何でも答えよう…のうダンゾウ
……ククク」(オオノキ)

「何だとジジィ!!」(カンクロウ)

「よせカンクロウ!
これでも土影…他里の長だぞ!」(テマリ)


「…なら一つだけ問う」(我愛羅)

「ああ!
何でも答えてやるぞ…若僧」(オオノキ)

「アンタ達はいつ己を捨てた?」(我愛羅)

我愛羅の清生とした態度にオオノキは既に圧されています(笑)。こう言う場合、得てして言わなくても良い事を言ってしまうもので、不安だから、ダンゾウに擦り寄ってしまうオオノキが居る(笑)。我愛羅の言葉の槍はその畏れを見逃す事なく一直線に飛んで行きます。ここで「アンタ」と言ってるのは、この修羅場ですら我愛羅が見せた「優しさ」とも言える。何故なら、我愛羅はオオノキしか見ていないから…。ホントは「アンタは…」とするべきところを、それじゃちょっとオオノキのショックがデカ過ぎるだろうと多少、配慮があったのだと、僕は考えています。ぶっちゃけ、我愛羅はダンゾウは尊重していると思います。先にも説明をしたけれど、大義があるから。オオノキは「諦めてしまったダンゾウ」と言えば分かり易いか…(笑)。

「!!」(オオノキ)

「………」(ダンゾウ)

オオノキとダンゾウの反応の差異が非常に顕著です。この機微にオオノキに一番近し関係だと思われる黒ツチが「一本とられたな」傷に塩を塗ってましたよね(笑)。ま…これも<シーン>とするよりは尻の座りがマシだからの優しさなんだけどね。対してダンゾウはオオノキと違って、我愛羅の言葉はそれ程、刺さらなかった筈です。寧ろ、共感したくらい…と言うのは、ダンゾウにも「己」があるから。我愛羅はそれが「道徳」に照らし合わせてどうなのか?と威嚇はしているものの、人としての骨格をどうこう指摘はしていない筈です。しかし、オオノキは違う。「そんな理想は無理な話じゃぜ!」と諦めて、”暁”に迎合する政策を推し進めている。我愛羅はそれをして「己を捨てた?」と質問…否…叱責に近いです(笑)。

我愛羅が許せなかったのはオオノキ一人で、シスイの写輪眼を使ってミフネを操るなんてズルをしたダンゾウや、”どこでもドア”の雷影を微塵も責めてはいません。やってる事がどうこうではなくて、そこに「芯」があるかどうかを我愛羅は問うている訳です。「芯」とは「己」「己」が信じるもの…それを「信念」と言うのです。それを諦めてはいけない事を我愛羅はナルトに教えられた訳です。我愛羅の標的とも言えるオオノキに「己」がないかと言えば、実はそうでもなく、オオノキの行いもまた自里の利益に直結するもので、その想いは里影としての責務に起因している筈です。しかし、”暁”を利用し、場合によっては与する両天秤まであるのが見え見え(笑)。我愛羅はただオオノキの不純さが許せなかったのだと、僕は思います。

(純粋な子…)(水影)

母性に溢れる水影ちゃんには、我愛羅の言葉の槍が快かったんじゃないでしょうか。まるで我が子の成長を喜ばしく思う母のように我愛羅を賞賛しています。現実問題として、我愛羅の持論が一朝一夕に成し得る事でない事も、水影ちゃんには解っている。それでも、五影会談の…この面子を前に堂々と言い放てる…我愛羅の(オオノキの不純さを責めた…)純粋さを水影ちゃんは、それこそ純粋に愛(め)でたのです。恐らく、霧隠れの里は「血霧の里」の悪名の猛省(もうせい)の上に再構築されて来たんだと、水影ちゃんの静かで真摯な態度が物語っています。そして、水影ちゃんの…この柔らかな視線が我愛羅のような子を育んでいる筈です。人の一生なんて高が知れてる…。成し得る事は余りにも少ない。それでも、人は諦めはしない。それは受け継がれるからです。その仕組み(=システム)を作るのがオトナの役割と言えるでしょう。

きっと、水影ちゃんは必死こいて、それを霧隠れでやってるんでしょう。婚期も婚約も省みず…そりゃ、ボヤボヤとしてる青にもキレるわな…と(笑)。人が人を大切に想う。喜びを分かち合う…信じる。それが出来る社会(仕組み)こそ重要なのだと、我愛羅は訴えている訳で、それを水影ちゃんは既に実践してるからこそ、我愛羅の言葉が水影ちゃんには心地良かった訳。我愛羅は殊更、責めはしなかったけど、ダンゾウが性急に「己」を貫こうとする事も善しとはしていません。それが、ナル×ジャンで言うところの「オレが!!オレが!!」であって、これは在りし日の大蛇丸にもあったし、山椒魚の半蔵にも顕著な傾向でした。諦めないところは悪くはないんですが、如何せん「欲」が突出している…。ちなみに、この「欲」雷影とは重ならない…って言うのを次の「考察」で赤裸々に…(笑)。


  

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