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色即是空空即是色

 
僕はこましゃくれた子供だったように思います。特に小学生の高学年辺りで急激に開花した記憶があります(笑)。何処がこましゃくれてたかと申しますと、図書館に入り浸って分厚くて漢字が多くて如何にも難しそうな本を広げたりする…ちょっと嫌らしいところがあった。勿論、内容が解るでもなく、ましてや文意に感銘を受け震えるなんてなかったんだけれど、何故だか楽しかったなー…。それで全く意味が解らないというのもやや語弊があって、何故だか大人になってから、あの本はこんなような事が書いてあったんだろうなー…なんて、時限式で思い当たるから、さぁ~不思議!!(笑)

司馬遼太郎大先生の坂本龍馬を書いたご本があって、それはちゃんと物事が解る様になってから読んだんだけれど、龍馬さんはただ本を捲りボーッと眺めているだけで、何となく意味が解った…みたいな行を読んだ時、そんなもんか…と極めて素直に納得できたのは、僕が龍馬さんみたいな偉人じゃない事を前提にしても感じ方のタイプが似てるのかなと、何となくですが当時、思い当たったものでした。文字を絵として認識するなら文学は景色のように感じらることでしょう。僕は子供の頃見た風景の何かしらを憶えていて、それを理解できる年頃になって言の葉として咀嚼し直してるんだと思う訳です。

何となくのお話なんでアレですが、僕は外で遊ぶより屋根の下でジーッとしてるのが好きな子だったから、本は大切な友だちでした。僕は本を開く事でいろんな旅をしたり、人とであったり、いろんな出来事、体験を重ねてたんだろうと思います。しかしそれは難しい文字の羅列としてではなく、それぞれの頁が一枚の景色として心に刻まれた。そして、その景色の解読を大人になった今、牛が食べ物を反芻するように行っている。その性癖は僕の考察スタイルとも似てる。読書と言うには凡そ稚拙な…そんなこましゃくれた子供だった僕の図書館遊びこそ原体験だったのだと、僕は感じています。

僕はいろんな事に興味がある子供でして、特に航空機には一方ならない思い入れがありまして、こましゃくれた子供時代の図書館遊びでも、その分野に僕の視線が及んだのは当然の流れでした。金属の塊が何で飛べるんだろう?に始まって、何で航空機の羽は後ろに傾いてるのか?とか上下に逸ってるかとか…子供向けの解説書から果ては専門書までを次から次へと、僕は旅して回った。基本、こましゃくれてたので子供向けの解説本(絵本)なんてのはサラッと流して、分厚くて変な数式が…「ρ」(ロー)とか流体力学系の内容を好んで開いてましたっけ(笑)。勿論、何のこっちゃ…でしたよ(笑)。

でも、ま…良くしたもので所々、その景色を憶えてるんです。僕はそこで大変な一冊を手にしていた…それを大きくなってから感じる事になるとは!!しかも、その気付きは本編ではなく、その分厚い学術書の序論に認められていたのです。めちゃくちゃ悔しい事にその本の名前が「航空力学概論」だったか、「航空力学入門」だったか…思い切り失念しています。勿論、空気の粘性や難しい公式なんて欠片…微塵の方が良いかも…程度しか、残っていないけれど「序論」の衝撃はクッキリと残っているのです。しつこいようだけど、その衝撃に気付くのはかなり後なんだけど、そんな景色だったのね。

それは、多分、こんな感じの景色だったような……

「今、私の手にはエンピツがある。エンピツの芯は黒鉛と粘度でできていて、それを木が包む事で構成されている。鉱物と植物が形を換えた姿である。今、私の手にあるものがエンピツであることを、今、ここに居る私が認識している。それは私の時間がそう感じさせているに過ぎないのだとも言える。よく考えてみれば、私という人間は父と母から生まれ、父と母はその親に産み落とされた。もっとズーッと遡れば人は猿だったようだし、もっと前は魚だったりプランクトンだった時期もあるのだろう。偶々、その過程の一瞬を私が担っているだけであって、地球の時間スケールから考えれば、私の分担など微々たるものだろう。ここで私の手にあるエンピツに目を向ければ、エンピツを認識する私も、私の手にあるエンピツも地球の時間からすれば、それはエンピツではないのも同じで、私も私でないのも同じであり、ある一瞬においてエンピツはエンピツであり、私は私なのだ。大きな時間の流れを基に考えれば全ては流転し一定ではないのだ。それを仏教において「色即是空空即是色」と説明しているのではあるまいか…」

…と言う様なお話がその「航空力学入門」かな…の序論に収められていたと、僕は記憶しています。めちゃくちゃな脳内変換っぷりで最早、原型を留めていないと思うけれど、僕はこんな景色を子供の頃見たのだと思います。きっと、その時、宇宙というものがあるならば繋がってたと思うんです。パンドラの次元が開かれて拡散する宇宙が収縮に転ずる一瞬に、人類は居ると感じたなー…あの時。それを誰かに表現するスベを僕は持たなかったから、僕の中だけに渦巻いただけで、僕の魂は漆黒の宇宙を彷徨って、遥か彼方から碧い星を眺め、その中の夥しい命と、その歴史を垣間見たのだと、今にして思う訳です。

般若心経

この序論で著者は、「色即是空空即是色」なる「般若心経」の言葉を持ち出したのは、僕が感じた様に時間の雄大さを感じて下さい…というメッセージだったんだと、大きくなった僕は受け取りました。著者は科学者として宗教観や宗教の「叡智」が人に何を伝えんとしてるかを示そうとしたのだと思います。ほんの一瞬に私らは居る。大きな宇宙の大きな地球の壮大な時間の中のほんの一瞬に私らは漂ってて、人間の小さな価値観や感受性は時に認識力を阻害する。そう戒め、自分達が何で学問を究めるのか?そもそも「学問」とは何なのか?を、先ずは序論で読者にぶつけて来た…と、僕は感じた訳です。

「色即是空空即是色」

「色」すなわち「1」。「空」すなわち「0」。「色」すなわち「物質」。「空」すなわち「無」…いろんな解釈が出来ると思います。ひとそれぞれの感じ方がある筈です。でも、完結にまとめると「色」も「空」も実は同じものなんだよ…と教えている…示唆してる。それは人間の持つ時間スケールと、地球の時間スケールでも違うし、もっと大きな宇宙だってあるし、その宇宙の外だってあるかも知れない。大っきな大っきな気持ちでそれを感じれば、形があろうとなかろうと、今、自分の手にあるものはエンピツとも言えるし、エンピツとも言えない…みたいな(汗)…全ては流転してるんだから、実は同じものなんだよ。

そんな風に昔、こましゃくれた子供だった僕は何となく感じるのです。少年少女はいろんな目的や事情があって学校で勉強してると思います。面白くない勉強もあるよね。時に何でこんな詰まらん事をするんだろう…と疑問に思う事だってあると思います。お父さんやお母さんが口を酸っぱくして勉強しなさいというアレだって耳タコで辛い…辛いの(笑)。でも…ね、世界には宇宙にはいろんな「叡智」が渦巻いてるのよ。それがパッと見、訳が解んない数字の羅列だったり、僕みたいに文字の羅列だったり、分厚くて重い本だったり…それらと出逢う旅をしてるのだと思って下さいよ。そこで景色を見てる訳。

人間の価値観なんて酷くチッポケなの。それじゃ何も見えないよ…と教えてくれるのが「学問」なんだと、僕は思うんですね。それの予行演習がガッコでやる勉強なんだと思って下さい。だから、いろんなジャンルを浅く広く学んでますよね。ま…勉強が「受験の手段」みたいになってて、大人ってアレだな…とは思うけれど、ある程度のレベルまで自分を押し上げないと、それにすら気付けないでしょ。だから、機械的にでも良いから勉強すれば良いし、大人もそんなプレッシャーを与えてるのね。そんな風に理解してあげて下さいよ。ま…僕らが少年少女だった頃も同じ悩みを抱えてましたから(笑)。

それを「うちはの力と千手の力…」で、ちょこっと書いてしまった。実はもう少し後のフェイズで出したかったネタだったんだけど(汗)。「学問」って人間って何なのか?を知るスベだから、それに触れる要件を満たさねば「色即是空空即是色」なんて示されても何のこっちゃでしょ。ま…『NARUTO -ナルト-』もそんなお話をサブリミナルに僕らに提供してくれてる作品な訳で、僕が心酔する理由がそこに在るのね。写輪眼が禁忌を潜り抜けて万華鏡を開くなんてバリバリ伏線だし(笑)。ぶっちゃけ、僕らは『NARUTO -ナルト-』という大きな時間スケールに触れとるとですよ。

それが常々、僕が『NARUTO -ナルト-』「文学」だと主張する所以です。つまりは「学問」だと思う訳。大きな「叡智」なんです。そこで僕らは「万華鏡の理(ことわり)」を見せられている。「色即是空空即是色」が示す森羅万象が流転する様を楽しんでいるのです。その激流の中、平和には「愛」が必要と悟りを開いた六道仙人の弟系の子孫であるナルトと、それが「力」だと理解した兄系の子孫であるサスケが絡み合い、もがき…苦しみながらそれぞれにアプローチしている…その姿に僕らは学び震えているのです。それがキッシーの描く万華鏡の迷宮…いやさ…「六道仙人のトラップ」と、僕は思ってるのさ…。


 

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