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「家族」(愛について…)


「サスケ……」(ナルト)

「……何だ!?」(サスケ)

イタチの真実ってのを
トビって奴から聞いた!
ウソか本当かはよく分からねェ…
けどどっちにしても
お前のやってる事は…」(ナルト)

「!」(イタチの真実…!?)(サクラ)

「分かるってばよ」(ナルト)

「!」(カカシ)

「!?」(サクラ)


「……!」<ピクッ>(サスケ)

「ナルト…前に言ったハズだ…
親や兄弟もいねぇてめーに
オレの何が分かるってな…」
(サスケ)

<キッ>「………」(サスケ)

「他人は黙ってろ!!!」(サスケ)

第485話「近く…遠く…」で、とうとう出ちゃった…なと思いました。やけに落ち着いてて妙に堂々としてるナルトと、必要以上に粗野に、汚れきった下品さの漂うサスケのコントラストが、お金持ちと貧乏な家に取り違えられた子供の末路みたいに見えて可笑しかった(笑)。「第七班」のメンバー=仲間であるサクラを迷いなく殺めようとするサスケを、ナルトは咎めました。しかし、それは今もサスケが「第七班」のメンバーであることが前提にあり、ナルトの大らかさというか寛大さが、如何にもゼロの状態から「足し算」の人生を歩んできた生い立ちに起因していて、何不自由ない幸福な状態から身ぐるみ剥がれるように転げ落ちた「引き算」のサスケとは根本的に違うのです(「サスケは何故、甘ったれなのか?!」参照)。

サスケのナルトに対する態度は、カカシやサクラとは明らかに違っていて、予想だにしないくらいサスケはナルトの話に聞く耳を持っています。カカシなどは額当てを上げて戦闘モードに入って写輪眼を出しただけで噛み付かれ、目上の人にそこまで言うかよ!!というくらいサスケは無礼な口調でカカシを口撃してました。サクラなんかは可哀想なもんで、会話すらも成立しないレベルで、実際に二度ほどサスケに殺されかけています(笑)。二度目の危機はナルトがグッタイミングに救援に入ったんんですが、アレがなけりゃサクラは完璧死んでましたから…香燐といい、サクラといい、サスケを好きになった女子は不憫です。それでもサスケに気があるようなので、これは最早、「※」としか説明のしようが(ry

そんな一途な女心なんかに頓着しないところにサスケのクールさはあって、またそのサディスティックな振る舞いが逆に女心に栄養補給しちゃって、女心が鎮火しちゃうどころか激しく燃え盛り、「非※」には想像すら及ばない不条理極まりない恋愛スパイラルが勝手に巻き起こってしまう。それがナル×ジャンが提唱する「ただしイケメンに限るの法則」(※)でありますが、それを知ってか知らいでか、サスケはもう好き放題に毒づくんですが、その姿が余りにも卑しく歪んでいて下品なんですよ。正直、小汚く見える(笑)。それをして、それでも女子は嫌いにならないと「非※」としては騒ぎたくなるんですが、それだけじゃなくてサスケの小汚さには理由があると思うんです。ココ…ポイントだと思います。


「今までにない感覚
汚されたうちはが浄化されていく感覚
腐れきった忍世界から
うちはを決別させる感覚」(サスケ)

「ある意味
お前たち木ノ葉がずっと望んできた事だ
昔からうちはを否定し続けたお前たちの望み通り
お前たちの記憶からうちはを消してやる」(サスケ)

「お前達を木ノ葉の全てを殺す事でな!

つながりを全て断ち切る事こそが浄化!
それこそが本当のうちは再興だ!」(サスケ)

第485話「近く…遠く…」のサスケの小汚さは哀れにも思えるほどで、あくまでも自分の非道は…うちはを蔑んだ天罰である…みたいな被害者意識が支えていて、そのえも言われぬ自信満々さが、ホントは何処かの大金持ちのお坊ちゃまと言って憚らない乞食に見えてしまいました(差別表現は平にご容赦を…)。忍の世界の理論でうちは一族が滅んだのだから、同じことをサスケがして何が悪い!!として、サスケの非道も容認されて然るベキでしょうが、であるにしても、こんな風にサスケが卑屈に歪む必要なんかなくて、もっと堂々としていれば良いと思うんですよ。それが何でこんな汚れた品のない表情で、言動で自分の正当性を誇示するのか?

何でこんなに必死なのか?

僕にはサスケの狂気とも言える饒舌さが、微かに残したサスケの良心に思えました。「第七班」…懐かしい仲間や先生を前にサスケが揺れている。ホントは悪い事とも解ってる…そんな罪悪感がサスケの中にあるんじゃないのか…それはサスケがこっち側に戻れる期待にも等しく、僕にはサスケの小汚さが逆に嬉しく映りました。同じようにナルトがサスケを前に堂々としているのはサスケの卑屈な態度の不自然さを静かに批判してるように思えます。しかし、ナルトはサスケを認めてる訳で、ナルトとサクラをオミットし、サスケとサシで殺り合おうとしたカカシの「諦め」とは真逆の「抱擁」のようです。だからこそ、どう見てもナルトには不純さはないのに、それを否定するしかないところにサスケの悲しさが滲んでいるのです。

(もしかしたらサスケ…
お前とオレが…
逆だったかもしれねェ…)(
ナルト)

ナルトがサスケとの衝突の直前にサスケを思い遣るんですが、これはサスケに対する多大なる「共感」です。それを「同感」とする不遜さもナルトにはなく、「同情」とする弱さも持ち得ない…ナルトの揺るがないアイデンティティが地に足を着いた安定感を齎しているのだと思います。感想にも書いたけど、サスケはナルトに絶えず劣等感を感じてきた子だから、ぶっちゃけナルトがサスケに相対するのは好ましいとは思えないんだけど、カカシですらサスケを殺すしかないと諦めちゃうくらいだから…もうナルトじゃなけりゃ受け止められない!!…と、僕は思います。そして、その可能性をサスケも充分に感じています。何よりサスケは焦り狼狽(うろた)えています。そして、尚もサスケはナルトにこう毒づいた……(汗)。

「他人は黙ってろ!!!」

第485話「近く…遠く…」で、この言葉がサスケから飛び出した時、僕は嬉しくて飛び上がりました。所謂、これがナル×ジャン的な「そしてとうとう出てしまった…」であり、「これは書かねばなるまい!!」の腹括りであります。サスケの隠し持つ善良さは自らの邪悪さを苛んでいて、その無意識の葛藤が他者を否定する事で辛うじてバランスしていると、僕は考えています。サスケが”鷹”の香燐を切り捨てたのは自分以外を決して認めないサスケルールであり、同じく”鷹”の水月や重吾を鉄の国で放置したのもそれと似たロジックです。サスケが他者を尊重するという事は、自らが抑圧する善良さを認めるに等しく、復讐の鬼として邪悪さのみに傾倒しなければならない現状に極めてミスマッチなのです。

だからこそ、サスケはこんなにも小汚く下品にならざるをえないのです。それは、それと真逆の抑圧であり、サスケが大好きな子には心苦しいけど、サスケが小汚ければ小汚いほど救いがあるという事だと思って下さい。サスケが小汚いというのも傍目を気にしたものであるというのは、螺旋丸と千鳥の衝突が生んだナルトとサスケの差し向かいの精神世界では、サスケは凛とした静かで品格の高い…キレーな青年だったので解って貰えると思います。サスケの自意識は極めて過敏に「外界」を警戒しています。勿論、「外界」にカカシやサクラは含まれようと、ナルトは含まれない点に注目して欲しいです。二人きりの世界が確かにある…それが刹那の精神世界での交わりで示されたのではないでしょうか。

サスケにとって……ナルトは「他人」
近くて…遠い…遠くて…近い「他人」


親族が集まったとき、「ある人」がいないことに欠落感を覚える人と、その人がいないことを特に気にとめない人がいる。
「その人がいない」ことを「欠落」として感じる人間、それがその人の「家族」である。
その欠落感の存否は法律上の親等や血縁の有無とは関係がない。(……)

家族とは誰かの不在を悲しみのうちに
回想する人々を結びつける制度である。


<空虚>を中心にして人間の運命は形成される。
邪悪さ善良さも不幸も幸福も、その起源は<空虚>のうちにある。
<空虚>は因習的な意味では「存在しない」ものであるから、あらゆる人間的事象に起源は存在しない、というより、「起源の不在」を起源とすることが可能だということを知った霊長類の一部が人類になったという言い方の方がより厳密であろう。

内田樹著「こんな日本でよかったね」~構造主義的日本論(文春文庫・66-67頁)にちょっと難解でアレですが…タレコミで教えて頂いて、この本を読んでみて、ナルトがサスケを追いかけてしまう訳が何となく解った気がしました。ナルトはサスケを「家族」だと思っているのです。それは…法律上の親等や血縁の有無とは関係がない…と、これを読んだ時、ナルトはサスケを「家族」だと認識している事が、僕には理解できました。ナルトはサスケの「不在」「欠落感」を覚えたのです。ナルトはサスケの「不在」を悲しみのうちに回想する…ナルトにとってサスケは大切な大切な「家族」なのです。これはサクラの恋愛感情とは異質であり、その違いはナルトとサクラのサスケに対する機微で読み取れるでしょう。

サスケはサスケで、父母の「不在」をイタチの「死」で埋め、イタチの「死=不在」を自らの善良さの放棄=邪悪さへの傾倒…人の根源への回帰…<空虚>で埋めようとしているのだと思います。<空虚>の認識とは人類の唯一無二の特権であり、人が人たる根拠と言っても良いでしょう。サスケの本能は自らの「非道」で自らの善良さを鈍麻させなければ生きれないと悟っているのです。そして、同じ事がナルトに対するサスケの態度にも適用できる事に気付きます。サスケがナルトを認めるのは自らの善良さを認めるに等しいのです。それがサスケの頑な小汚さの正体でありましょう。ナルトがサスケにとって特別なのはカカシやサクラをしても「他人」と言わしめない……サスケにとってナルトはかくも特別なのです。


家族というのは、起源的には「礼」を学ぶための集団であると私は考えている。
「そこにいない人」「不在」を痛切に感知する訓練が「礼」の基礎となるからである。それは死者の弔いというかたちをとることもあるし、やがて家族のうちの誰かから生まれてくる子供への期待というかたちをとることもある。
「もういない人」の不在と「まだいない人」の不在をともに欠如として感知する人々が「家族」を構成する。

それが解体しつつある。

そういえば、上野千鶴子の『おひとりさまの老後』という本には、「家族の不在(悼むべき祖先の不在、来るべき子孫の不在)を少しも痛みとして感知しない人間」になるための方法がことこまかに書かれていた。
だが、「もう存在しない他者」「まだ存在しない他者」の現時的な不在を「欠如」として感じることは人間が種として生き延びるために不可欠の能力である。
この能力の重要性を過小評価すべきではないと私は思う。

この難解な考察の結びの部分で内田先生はこんな風に示されています(「こんな日本でよかったね」~構造主義的日本論/70-71頁)。人の運命の根源たる<空虚>とは、ナル×ジャン的に表現するならば「想像力」であります。だって、「そこにいない人」の「不在」を痛切に感知する…のですから。ちなみに「礼」とは孔子の説いた「六芸」の一つで、最も重要な人間的教養であるにも拘らず、最早、一部葬礼にのみ名残りをとどめるばかりに、その命は旦夕(たんせき)に迫っていると、内田先生は嘆いておられる。その嘆かわしさをもって警鐘を鳴らしているのだと、僕は感じました。理論展開に拠る数学的な認識は手品に化かされたようで好きではないけれど、この気付きは、僕にとってもの凄く尊いものです。


「この木ノ葉の里には
毎年多くの忍が
生まれ育ち…
生き…戦い……

里を守るため…そして
大切なものを守るため
死んでいく…」(ヒルゼン)

「そんな里の者達は
たとえ
血の繋がりがなくとも…
ワシにとって
大切な…大切な…」(ヒルゼン)

「家族じゃ!」(ヒルゼン)

『NARUTO -ナルト-』ではいろんな「家族論」が展開されています(第14巻/93-95頁)。ヒルゼンが示した全人間的な「家族論」はナル×ジャン的には「おくるみ」(アイデンティティ)に示してありますので、お時間のある時に是非とも読んでみて下さい。思えば、『NARUTO -ナルト-』では奈良家(シカマル)くらいしか「家庭」が描かれてないんじゃないでしょうか。秋道家(チョウジ)もコンプリートでなかったし、『NARUTO -ナルト-』の描く「家族論」どちらかと言うと、少なくとも一般的な「家庭」じゃーない(笑)。ナルトに至っては完璧に「ボッチ」ですから、それでも真っすぐに育ってしまったナルトって狡かァ~(笑)。でも、そこにはいろんなチート設定もあったりしましたけど…(笑)。

イルカが許し

「白」が導き

カカシが護り

ヤマトが叱り

自来也が託した

ナルトにとってそれら全てが「親」であり、彼を育んだ木ノ葉隠れの里こそ彼の「家庭」と言えるでしょう。それはヒルゼンの言う「家族」そのものでありましょう。言わば、これは「子育ての社会化」です。リアルの世界に目を向ければ「子供手当」とか「高校の授業料無償化」とかに当たるものでしょう。それは同時に「家族」というものの無力化を意味し、人間の本能の減衰にも似た響きがあるのですが、それもかつ消えかつ結ぶウタカタの理であり、全ては無常、全ては流転の中にあると思えば致し方ない事なのかも知れません。『NARUTO -ナルト-』が凄い漫画だと思えるのはリアルの社会に通じるリアリティがあるからです。これから大人になろとする少年少女へのメッセージがてんこ盛りに盛りに盛られているのです!!


「…今なら
アンタの言ってた事も
少し分かる気がするよ」(アスマ)

「木ノ葉を離れたり…
好き勝手な事ばっかりして悪かったな…
後悔はしてねーけどな
…今は猿飛一族に生まれたのも
悪くねーと思えるぜ
アンタはちゃんと
里長としての役割を果たした」
(アスマ)

「かっこいい父親だったよ…」(アスマ)

ちなみにアスマはヒルゼンの親心の深層が理解できない部分があった訳です(第35巻/95-97頁)。若かりし日のアスマの紆余曲折(ヤサグレ)は有り余るヒルゼンへの期待や情に起因したのでしょう。アスマがヒルゼンにどれだけ期待したか?しかし、ヒルゼンには「木ノ葉隠れの里」という大きな責任が厳然とあった…。その乖離たるや「グレてまうやろーッ!!」のレベルで、アスマが煙草に走ったのも何だか解ります(笑)。でも、アスマが自分の「玉」(←シカマル)に気付き、折しも紅のお腹に自分の子が宿っている事を知った上で、その一命に代えて「玉」を守り抜こうと覚悟した時に、初めてヒルゼンの想いに辿り着けたのは凄く皮肉だけど、凄く素敵な事だと、僕は思います。そして、その深さが今にして心に刺さります…。

「オレはお前に会えて
ホントによかった」
(ナルト)

第485話「近く…遠く…」で、ナルトはサスケに笑顔でそう言いました。勿論、サスケはそれを即座に否定したけれど、ナルトは揺るぎませんでした。この場合、サスケの浅はかな冷たさを見切ったと言う方が適当でしょうか。そして、ナルトはある種、確信をもってサスケに向かいます。ナルトはサスケがいない事に「欠落感」を覚える人だからです。サスケはナルトにとって「家族」だからです。サスケの堕天を悲しみのうちに回想する…ナルトにとってサスケは大切な大切な「家族」なのです。ヒルゼンはそれを自分の命と引き換えに伝えました。木ノ葉隠れにたくさんの「種」をバラ撒いたのです。いつの日かその「種」が芽を吹き、生い茂り、花を咲かせ…

「愛」という実がなる事を願って…。

『NARUTO -ナルト-』には「愛」が満ち満ちています。そして、そこには条件評価もない。ただ、そこに居ていいのだと…。アナタが何者でも構わない。唯唯、生まれてきてくれて嬉しいよと、その両腕を大きく広げ微笑んでくれている。誰もがその人のいない事を悲しむ…人々が喧噪に見失いそうになっている「愛」が溢れているのです。ナルトの自信は「愛」に支えられています。それはナルトがたくさん愛されたからに他なりません。木ノ葉隠れという「家族」にナルトは多くの「愛」を貰っているのです。「愛」を与えられた事がない人は、決して他に与える事はできません。だから、僕ら大人がまず子供達を思い切り愛するべきなのです。

彼ら(・・・)が「愛」に迷わない為に。

彼ら(・・・)が「家族」を見失わないように……。

「家族」(愛について)
ナル×ジャン ケルベロス




 

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