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何故、「兄」と「弟」なのか?(完)

 
「六道仙人は忍宗の力と意志
二人の子供に託す事にした

兄は生まれながらにし
仙人の”眼”
チャクラの力と精神エネルギーを授かり
平和にはが必要だと悟った

弟は生まれながらに
仙人の”肉体”
生命力と身体エネルギーを授かり
平和にはが必要だと悟った

仙人は最後に死の床で…
後継者を決めなければならなかった…
しかしその決断が永劫続く憎しみの呪い
生んでしまった」(トビ)

(忍の始祖とされる六道仙人
現在の全ての忍術はその輪廻眼を持つ仙人により生み出されたという…

それは世が乱れた時に天より使わされる創造神とも
全てをゼロに戻す破壊神ともいわれる…
神話の如き話だと思っていたが…
本当に輪廻眼を持つ者が存在するとは…)(自来也)(ep373)

「安寧秩序」…十尾の人柱力となって六道仙人が維持していた世界の「王道楽土」(楽園?)が六道仙人の死を持って終焉を迎える…(第49巻/164頁)。「宿八」での獅子奮迅のヤマカカの前でのトビの半落ちで六道仙人の二人の子の提示があって、ナル×ジャンでも「兄系」「弟系」の表記で「うちは」(仙人の眼)と「千手」(仙人の肉体)として考察しています。自来也が回想する六道仙人のスペックから考えれば、これまで「死」を否定する人外の態を為して来た”暁”の如き延命は可能だったと思います。寧ろ、”暁”が六道仙人の提示した禁術にしがみついていたと考えた方が平易なくらい六道仙人は凄くて、どうして二人の子に自分の能力を分散して伝えたのかが、僕には不思議…不思議で仕方ないのよ。

六道仙人ほどのお人ならばイメージする内容と寸分違わない結果を生み出せたと思うんです。何せチャクラの真理を解き明かしたんですし、何より「十尾」なんて莫大なチャクラを自分に搭載してたんですよね。その人がですよ…自分の子に不完全に自分の能力を継承させたとは、僕には考えられないんです。もっと決定的だったのは六道仙人の奥さんの描写が全く無かった事でして、これは「家族」を考える上では余りにも不自然でした。チャクラの真理を解き明かし、無尽蔵のチャクラを使役できたであろう六道仙人なれば奥さが居なかろうとも子孫を生み出せた…と、ナル×ジャンでは考えています。ぶっちゃけ、六道仙人には奥さん(配偶者…生まれてくる子供の母体)が必要なかったんじゃーないでしょうか。

現代の生化学よりもっとずっと万能な大系が忍術にはあって、それを活用すれば六道仙人のDNAから二つの六道仙人を作るのは容易い事だったんじゃないかと思うんですよ。そして、それは忍宗にない結果であって、人々の意志が「忍宗」を「忍術」に導いた人の歴史に対する六道仙人のアンチテーゼだったのではないかと、薄らとですが…僕は六道仙人の断末魔を考えたりしています。チャクラって凄く便利なアイテムだったから、それを示した六道仙人は崇めたれ奉られたと思うんですね。でも、その信仰が人々を幸せにしたんでしょうか…ってところですよ。「忍術」「忍」を分化させて世界の混沌は深まったじゃないですか。輪廻眼の才能を持った長門が憂いていた「痛み」とは正にそれでしょうよ…。

それを六道仙人が予想しなかったとは思えんのです。

六道仙人は永遠に生きれたと思います。角都なんか意地汚く「生」を繋いでたじゃないですか。でも、六道仙人はそれを善しとしなかったんです。例えば、煙草を吸う人に煙草を吸いながら「煙草は身体に良くない」と諭したところで響かないのと同じです。チャクラの便利さの万能感を味わってしまった「忍」に、忍術を駆使した延命は説得力ゼロです(笑)。だからこそ、六道仙人は自分を完全な形で残さなかったんじゃないでしょうか。それが「兄」「弟」だったんじゃないかと、僕は考えるのです。六道仙人がコピーされて残ったところで、「忍宗→忍術」と流れた世の中のベクトルは修正不能です。十尾をバラバラにして、六道仙人もバラバラにして世界にバラまいた。それこそが六道仙人の「死」だったと思うんです。

「仙人は力を求めた兄ではなく…
愛を求めた弟こそ後継者にふさわしいと
そちらを選んだ


長男として当然
自分が後継者だと思い込んでいた兄は納得せず…
憎しみのあまり弟に争いをしかけた

時がたち血が薄れても
二人の兄弟の子孫は争いを続けた」
(トビ)

「兄の子孫は後にうちはと呼ばれ
弟の子孫は後に千手と呼ばれるようになる

このうちはマダラと
初代火影千手柱間との闘いも
運命だった」
(トビ)

六道仙人が「兄」「弟」が争う仕組みを残したのだと、僕は考えています(第49巻/165頁)。それを「呪い」だと叫ぶところにトビの被害者意識があって、如何にファザコンをプリセットされたであろう「兄系」の子の言い草だと思います。「千手」がその機微に無頓着なのも凄くしっくり来ます。「千手」が騒がないから、「うちは」が苛つく訳で…(笑)。それを演出する為の「兄」「弟」が六道仙人には必要だったんじゃないかと思います。つまり、「兄」「弟」は仕組まれて産み落とされた…。母の居ない自然な分娩ではなく、土塊(つちくれ)から造形するように、二人の子を六道仙人は意図的に残したんだと思うんです。

それを「呪い」と言いたいのなら言えばいいサ!!(笑)

何だか解り難いだろうけど、「何故、兄と弟なのか?」はここでしっかり考えるべきだと思うんですね。この土日でまとまるか不安ですが、この後にいつかのように続けて書いてみます。ナル×ジャンの黒さを…ってのにはならんと思うんですが、相方と散歩しながら考えてみます。エイプリルなんたらでは皆さんにご迷惑をかけてしまいましたし、僕は書かねばならんのだと感じた次第で、イタチの”須佐能呼”のようにチャクラでなく命を燃やすように書いてみようと思います。考えてみれば「兄」(イタチ)が「弟」(サスケ)に注いだ「愛」など、「呪い」には極めて整合性のないベクトルを持ってるのね。これは「反逆」に近い訳。そこにはイタチはサスケに伝えたかった「想い」が忍んでいるのですよ…きっと。


イタチとサスケの場合…(100403)

「お前の眼はイタチのことを何一つ見抜けていなかった
イタチの作り出した幻術(まぼろし)を何一つ見抜けなかった

だがイタチは…
友を殺し
上司を殺し…
恋人を殺し
父を殺し
母を殺した…

だが殺せなかった…弟だけは

血の涙を流しながら感情の一切を殺して
里の為に同胞を殺しまくった男が…
どうしてもお前を殺せなかった」(トビ)

「その意味がお前に分かるか?
あいつにとってお前の命は
里よりも重かったのだ」
(トビ)

トビはイタチの真実をサスケに知らしめる事でサスケの万華鏡を抉じ開けました…(第43巻/216-218頁)。ナル×ジャン的には「万華鏡の儀式」と呼んでいますが、内容の真偽うんぬんはこの際どうでもよくて、サスケを如何にして後悔のどん底に突き落とすかが重要に思えました。だから、トビの話す内容の信憑性は甚だ疑問なのですが、それはイタチの行動を俯瞰的に見て来た僕達なれば吟味できる事だと思います。イタチはサスケを愛していた…それだけは「鉄板」でしょう。人の「感じ方」って凄く大事だと、僕は思うんですね。例えば、誰かが居て、その人の外見とが言動とか行動とか…パッと見に人の「感じ方」って大いに左右されちゃうんんです。でも、そこで留まっててはダメだと思うの。

「その人のうちなる信念が現れるのは、彼がいう言葉においてでもなく彼がそうだと思っている思い込みにおいてでもなく、彼が為す好意においてなのである」

(モーリス・バンゲ著/竹内信夫訳「自死の日本史」筑摩書房)

ちょっと素敵な言葉があるので紹介しておきます。サスケはズーッとイタチの作り出した「幻術」(まぼろし)の中を彷徨ってた様なもので、悪夢の終焉がイタチの「死」であり、万華鏡の開眼だった訳です。サスケは津波のように押し寄せる「後悔」の中で徐々にイタチを感じているのが、サスケの「今」「これから」でしょう。そもそも記憶とは極めてあやふやであり、美化がありーの改竄がありーので、それを「幻術」(まぼろし)と呼びたきゃー(ryの世界であります(笑)。でも、それが人の構造だから、その上で人はいろんな事を感じてるのね。でもね、そこで物事の上っ面に翻弄されてちゃーいけないと、僕は思うんです。そこで、その人の言動の向こう側に隠れる「好意」を感じなきゃ。

僕がモノを書き、何かを発信するのは先ずは自分の為なんだけど(汗)、それだけじゃない。『NARUTO -ナルト-』なんて凄い作品があって、その旨味を僕だけが味わうのは申し訳ない。少しでもいいからお裾分けを…と老婆心な僕は考えているのです。ちょっぴり恥ずかしいけど、それを「好意」なのだと、僕は感じています。ま、それが僕の思い込みっちゅーならそれまでなんだけど(汗)。イタチが凄い事をしてました…ってところで、僕がどういう気持ちで書いてるのかを論ずるのは極めて不遜な方向に傾く流れでアレなんですが、「好意」なんだと思って下さい。同時に僕らはキッシーの「好意」も感じ取ってるのね。それって凄ーく大事だと思うんですよ。何故なら、それは人の「信念」を理解してるという事なのだから。

「アンタは言ったな
イタチがどうしてオレを殺せなかったのか
イタチにとってオレの命は
里よりも重かったからだと」(サスケ)

「オレも同じだ…
オレにとってイタチの命は
里よりも重い…
それだけのことだ」(サスケ)

話が横道に逸れちゃったけど、サスケも今まさにそれを感じながら行動してる(第45巻/74頁)…と、思いたい僕が居る訳。ただ、今のところトビなんて悪い大人がサスケにベッタリで関与しまくってるので、サスケの黒さばかりが前面に突出してるんだけど、サスケはイタチに愛された自分を感じ、イタチを愛していた自分に気付いてるんです。その清らかな気持ちを「好意」としてでなく「悪意」にすり替えて外向きに発散させているのがトビだと思うんです。人って基本、利己的だから、自分が凄く大事なようにできてます。そうなってるんだから仕方ないと思うんです。でも、そればかりに固まってちゃー味気ない…。「好意」を感じなきゃ。それができた時、サスケは初めてイタチを超えられると思うんです。

「兄」が「弟」を愛した…。

そこまで行けたらしめたモノで、今度はトビの「好意」だって感じれる筈なんです。そうなれば、イタチがサスケにした事の本質が解ると思うんです。六道仙人が恣意的に「兄」「弟」を造り出し、その末裔が「忍」を成してるとして、基本、「兄」「弟」を恨むように仕込まれてる筈なんです。それが「呪い」ですから(笑)。でも、イタチは違ったじゃない。サスケをあんなにも愛したでしょ。ファザコン気質の王様みたいな「うちは一族」にあって極めて異例です(笑)。ぶっちゃけ、イタチは六道仙人に「謀反」を起こしたんだと思います。それが石版の解読に拠るのか、別のネタ元があるのかは知れませんが、イタチはイタチの「信念」に基づいて行動したんですよ。それは六道仙人の「好意」を感じたって事です。

「組織に執着し
一族に執着し
名に執着する…

それは、己を制約し
己の"噐"を決めつける
忌むべき事…


そして、未だ見ぬ…
知らぬモノを恐れ憎しむ…
愚かしき事!!」
(イタチ)

イタチが何に焦り苛ついていたのかを僕らもサスケも感じるべきでしょう(第25巻/98頁)。それに誰よりも早く辿り着いたのがナルトなんだと思います。それはナルトがイタチを感じてる…というのではないけれど、ナルトはサスケに「好意」を持って接してるでしょ。イタチはナルトのそれを感じてたと思います。だから、自分の力…イタチがサスケに向けて使いたくなかった力…をナルトに託したのだと思います。ミナトがナルトを、イタチがサスケを全く違ったアプローチで「強化」した意味に、僕らはそろそろ気付くべきじゃないかな…。「愛」「力」は同じものなのに、それを違うと認識してしまう…「六道仙人のトラップ」にハマってしまうのは「好意」に対する感性が鈍麻してるからだと、僕は思うな…。



ナルトとサスケの関係…(100404)

「お前が木ノ葉に攻めてくりゃ…
オレはお前と戦わなきゃならねェ…

憎しみはそれまでとっとけ…
そりゃあ全部オレにぶつけろ

…お前の憎しみを
受けてやれんのはオレしかいねェ!
その役目はオレにしかできねェ!

オレもお前の憎しみを背負って
一緒に死んでやる!」
(ナルト)

<ギリ…>「………」(サスケ)

「……何なんだ…?
てめーは一体何がしてーんだ!?
何でオレにそこまでこだわる!?」(サスケ)

「……」(ナルト)

「友達だからだ!!」(ナルト)

第486話「拳」で何となく感じたんですよ…。ナルトは既に気付いてる…なって。「力」「愛」を別物と考える兄系の急先鋒がうちはで、「力」「愛」も頓着ない天真爛漫な弟系の千手であり、両者が必ず衝突する状況を生み出すのが「六道仙人のトラップ」なのだと、僕は考えています。ナルトの凄い所はそれにすら頓着してないところで、超弟系というべきレベルなのかも知れません(笑)。理屈であれこれ考えるんじゃなくて、もっとズバズバ感じちゃう…「一緒に死んでやる」なんて、ナルトじゃなきゃ言えない。これじゃーまるで……になっちゃう訳。それが具体的に何なのかは別の考察で書こうと思ってるんだけど、ナルトがサスケに言った事はでまかせじゃなくて本心だと思います。

サスケはナルトのおおらかさが理解できないでいるようですね。サスケは失う苦しみを知っているから、無尽蔵に溢れ出すナルトの「愛」が受け容れられないのではないかと、僕は考えています。八尾戦以降、良い感じでまとまっていた”鷹”をあっさり放棄しちゃうサスケの行動は「繋がりが怖い症候群」なのではないかと思えます。サスケにベタベタするサスケマンセーの香燐をダンゾウもろとも切り捨てたのなど、正にそれです。うちは虐殺で一夜にして全てを失ったPTSDみたいにサスケは病んでるんじゃーないでしょうか。だから、ナルトの「一緒に死んでやる宣言」<ギリ…>と歯ぎしりをしちゃうのね(笑)。ナルトもサスケのそういうところに配慮がないもんだからサスケを引き蘢らせちゃうんだと思います。

まるでそれは「天岩戸」に隠れた天照大神みたいじゃないですか。大蛇丸が自来也に、志村ダンゾウが猿飛ヒルゼンに、それぞれ感じた眩しさがここにも…。常に「兄」「弟」を眩しいと感じる関係性が続いてる。「弟」の天真爛漫さが「兄」を不安がらせたり、苛つかせたりする方向に転んでる。それにハマっちゃう「兄系」を心が弱い…とか言って責めるのもどうかちゅーか、そういう設定になってるんだから仕方ない(笑)。親が(トラップ)仕掛けて自分はサッサと逝っちゃったんだから(笑)。ま…そこに「好意」があるんだけど。結局、そこに気付けるか気付けないかにかかってると言っても過言じゃない訳。人生って。その気付きに出逢えるか否かなのよ。お知れられるもんじゃーないからサ。

だから、サスケの「拒否」は、僕には凄く分かるのです。寧ろ、サスケらしいと思いますもの。サスケが躊躇なくサクラを殺めようとしたもの、サスケベッタリのマンセーがウザイと思う気質の所為だし、その意味で、サスケはサクラをしっかりと見てるっちゅー事になると思います。香燐も同じね。二人の女子はサスケに殺意を抱かせるくらいサスケに認められたのだと思います。それって「心の絶対値」の観点からすれば喜ばしい事で、好きとか嫌いの「値」あるんです。香燐なんかめっさ落ち込んでたけど、完全にノン気じゃない訳だからホントは喜んでもいいくらいなんです。でも、若いから気付けないでいる。サスケがサクラに言った「ウザイ」「ありがとう」に変わるんだから、人の心って不思議でしょ(笑)。

<ザッ>「話とは何だ?」(トビ)

「イタチの眼をもらう」<ザッ><ザッ>(サスケ)

第487話「戦いの始まり…!!」で、ナルトの前から消えたサスケが真っ先にトビに告げたのが「イタチの眼の移植」だったんだけど、僕はサスケの変心に僅かばかりの希望を感じましたもの。これまでサスケは「イタチの眼」を拒んで来たでしょ。それってサスケにはイタチしかいなかった…って事だと思うんです。サスケのアイデンティティがイタチに依存してる様な、自立してない困ったちゃんみたいな弱さをサスケには感じてたんです。ここに来てナルトが一気にその存在感を増してサスケに迫るもんだから、サスケもちょっと安心したんだと思うんです。この機微は分かるかな…恋愛に似てますよね。元カレと別れるのに、次カレの気配が必要な狡さ…みたいな(汗)。それと凄く似てると、僕は思います。

狡さ…っちゅーのもキツイかな。誰だって独りぼっちはヤだし、寂しいのは辛いじゃない。本能的(DNA)な危機管理も実はあるんですね。兎に角、「……いつでも来い…サスケ」(第487話/「戦いの始まり…!!」)のサスケバッチ来いのナルトが居るからサスケはイタチの「死」を受け容れる事ができたと思います。そろそろ、皆さんにも「ナルトの異常さ」が解って来たんじゃーないでしょうか(笑)。こんな事ができるのってナルトと………<グォフォッ…>。ぶっちゃけ、ナルトはイタチの役割を引き継いだんだと思います。そして、ナルトはいろんな意味で「超」の付く破格っぷり。これが「呪い」のループを断ち切る可能性に物語の行く末がぶら下がってると…僕は有耶無耶に濁しながら期待してる訳なのだ(笑)。


志村ダンゾウの憂鬱…(100404)

「見るかぎり腕の写輪眼は十個
そして初代の細胞…」(トビ)

「うちはの力と柱間の力…
九尾をコントロールするつもりでいるようだな」
(トビ)

(こいつもナルトを狙っている…)(トビ)

第478話「”須佐能呼”完全体…!!」でトビはダンゾウの身体の秘密に気付きます。ダンゾウは右腕に10個の写輪眼を搭載していて、右眼にはシスイの超レアの写輪眼まであるんだけど、写輪眼に合ったうちはの身体ではなく、もしカカシだったら瞬殺で木ノ葉病院のベットに運ばれる負荷をダンゾウは涼しい顔で受け止めています。写輪眼使いのトビもその点を不思議に思っていて、それが右上腕の人面疽(デスマスク)で晴れた訳です。サスケのチャクラが香燐を驚かせ、”須佐能呼”が完全体になってダンゾウに剛弓が放たれたのをダンゾウが木遁忍術で矢の軌道をズラした事で、初代の細胞(人面疽=初代?)を埋め込んで身体エネルギーを向上させる狙いがあるのをトビに見抜かれてしまいました。

しかし、しかし…です。何で「うちはの力+柱間の力=九尾のコントロール」なんでしょうか。トビがダンゾウの身体の秘密を見るや否やその答えに迷いなく達したのは些か唐突でもありました。九尾のコントロールを高度に覚醒した写輪眼、或いは万華鏡写輪眼が可能である事は以前から分かっていました。また、ヤマトの能力が九尾(尾獣)のコントロールが可能なのも描写がありました。それが同時に手の内にある状況にトビは興奮していたと思うんですね。それから「うちは」が九尾を覚醒させて、「柱間」鎮静させるのかな…という考えが持ち上がりました。そういえば猛り狂い九尾化するナルトをヤマトは鎮める係でしたっけ。でも、大蛇丸のアジトでサスケの写輪眼が九尾を吹き飛ばした事もあるんですよね。

「一尾から九尾までの
尾獣はその十尾のチャクラを分散したものにすぎない
六道仙人の手によってな」(トビ)

十尾を九つに分割したのが尾獣であり(第50巻/76-77頁)、九尾はその中にあって少しばかり特別な存在のようです。そして、九尾が「うちはの力」である写輪眼や「柱間の力」と特別な関係にあることは六道仙人が十尾を分割した真意と無関係ではないでしょう。六道仙人の性癖…ちゅーかやり口としては「分割」するのが好きだったみたいですね。ま…それ以外、十尾のチャクラを自分以外に委ねる方法が思い付かなかったのかも知れませんが、自分が居なくなってから自分の子孫達が何とかやって行ける程度に無害化して…完全に滅却するとかせずに残した…野に放ったのに、先に書いた「好意」が携えられているのであれば、僕はそれを「親心」と呼びたいのだけれど伝わるかしら。

確か、人柱力が死ねば人柱力に封印されていた尾獣も死んじゃう筈。それが人柱力という忍術なんだと思います。しかし、六道仙人は自分の「死」と尾獣の「死」を連動させなかった訳で、尾獣は死んでもまた復活しちゃう(湧く?)なんて理由があった可能性もあるけど、僕は六道仙人が意図的に十尾のハードルを九分割までして下げて残したんじゃないかと考えています。それが六道仙人の「親心」なんだと思うんです。同じ理屈で六道仙人は自分の能力すら二人の子に別けて託しているじゃないですか。それが仙人の眼を持つ「兄」と仙人の肉体を持つ「弟」だったんだと思います。そして、その子達の為に一尾から九尾までの尾獣を残した。まるでジグソーパズルのピースをバラまくように世界に鏤めたのです。

傷付き、気付き、築く…

六道仙人自身は正に全能であり、神とも言える存在だったのだと思います。だから、六道仙人本人は世界の全てと繋がり、理解できていた筈です。それが「安寧秩序」を齎していた。問題はそれを次世代に伝えるところにある訳で、誰もがその難易度の高さに悶(もだ)えるもので、六道仙人ですらそれに悩んだんじゃないのかと思います。難しいいのは教えたら宜しくないところです。気付いて貰わねばならないから。その為に人は傷付く必要があるのね。そうして気付かないと築けないのです。この難しさは大人なら誰しも悩んでる事だと思います。お父さん、お母さんもそうじゃないでしょうか。職場でも同じ悩みはありますもの。六道仙人もきっとそれを意識して自分すらバラバラにして逝ったのだと思うんです。


「この世界は一つになるべきなのだ
かつて初代火影柱間が一族をまとめて
里を創ったように
今度は里をまとめ忍世界を一つにする」(ダンゾウ)

「話し合いで
この忍の世界が一つになる事はない…
時間をかけて道徳的にやっていては
何も変わらん
いずれは”暁”に
忍世界を潰されてしまうだろう」
(ダンゾウ)

五影会談でシスイの瞳術を使って悪さをしたダンゾウがこんな事を喋ってるんです(第49巻/145頁)。これって”暁”のしてる事に対する脅威を一番自分が理解してると叫んでるように、僕には思えるんです。そして、ダンゾウは「柱間の力」「うちはの力」を使って「九尾」をコントロールしようとした…。つまり、”暁”もダンゾウもベクトル的には六道仙人が残したジグソーパズルに気付いてる…ちゅー事なんだと思います。今の世界は遠い昔、六道仙人がバラバラにしたものだから、それをまとめる必要がある事を、”暁”もダンゾウも気付いてる…と、僕は思うんです。そして、ダンゾウはダンゾウなりに考え、大蛇丸に柱間の細胞と写輪眼を右腕に移植させたんだと思います。

ダンゾウが、根を使ってカブトを回収しようとしたのは、右腕の写輪眼のアップデート…つまり万華鏡写輪眼の開眼でしょう。大蛇丸の人体実験データとは恐らくカカシの事であり、カカシの万華鏡写輪眼の開眼には大蛇丸が関与しているんだと、ナル×ジャンでは考えています。トビが写輪眼をコレクションしてるのには写輪眼をどんな風にトビが受け止めてるかが重要になって来ます。それは今はまだ書けない内容なので保留させてもらいますが、医学的だか生化学的に写輪眼にアクセスする事が可能で、「万華鏡の儀式」とか、正統な血統でなくとも万華鏡写輪眼は開眼できる事を示していて、いつだったかカカシの「視力低下発言」に全身総毛立ったイタチの「カカシさん アナタ まさか…」が響きます。

「全てがオレと一つになる!
全ての統一を成す完全体だ」
(トビ)

ちなみに、トビもダンゾウとはちょっと違うけれど、やはりバラバラのジグソーを一つの絵にしようとしてるようです(第50巻/72頁)。トビの場合はマダラの想いを引き摺っていると思われ、かなり強烈に鬱傾向を発散しています(笑)。マダラを「終末の谷の決闘」に導いたのは孤独感と、それに端を発する被害者意識だったと、僕は考えています。ま…それはさておいて、トビのダンゾウに対する理解は、六道仙人の「好意」をある程度理解したものであり、六道仙人の「親心」に逸早く気付いた者同士の疎通があったと思います。九尾ですら「柱間」「うちは」が必要なのだから、尾獣を集めて十尾を復活させ、十尾の人柱力になるとトビなど、それだけじゃ成らない。まだ足りないピースがある訳です。

ぶっちゃけ、トビがナルトの中に「千手柱間」を感じ、特別な場所を設けてうちはサスケをぶつけると宣言するからには、二人は柱間とマダラの再来とも言える存在なのでしょう。波風ミナトとうちはイタチがその一命に代えて送り出した重さを鑑みれば、既に特別な存在だったのですが、トビが二人にどれだけ期待をしてるかは、二人を如何にも軽々しく自分の「コマ扱い」してる機微に滲みまくってる気がしてなりません。ダンゾウの九尾に対するアプローチから考えれば、それより上位の十尾にアプローチするには、ナルトの肉体とサスケの眼が必要になるだろうと思います。僕が「ナルトとサスケが一つになる」というのは、それを想定した考えであります。そして、これが「兄」「弟」を六道仙人が残した理由でしょう。

自分の力をフルスペックで残したところで、誰も傷付かないから、誰も気付けない。それだと、自分達の幸せを築いたとは言えん訳です。どんなに平和であっても夢を見てるのと同じです。トビの無限月読の世界と何ら変わらないです。それじゃーダメだと、六道仙人の「親心」は騒いでいるんです…きっと。だから、十尾を九つのチャクラに別けて残したのだし、自分の能力もご丁寧に…まるで自分を真っ二つに別けるゼツのように…残した訳です。それは、忍術やチャクラを今一度、皆に考えて欲しかったからだと、僕は思うんです。便利でチートなチャクラが本当に世界を、皆を幸せにするんですか?本当にそれがないと生きていけないんですか?よーく考えなさいね…みたいな「親心」…ね(笑)。

(会えば…会えば答えが分かる気がする…)(ナルト)

第484話「それぞれの第七班!!」で、ナルトはそう自問自答しながらサスケの元に向かいました。僕にはそれが大きな希望に感じられたものです。六道仙人が世界に対して「好意」を持って、十尾と自分(能力)をバラバラにしてバラまいた。それは自分の子孫に向けた「成長への課題」なんだと思います。僕はそれをして「親心」なのだと考えています。だから、ダンゾウやトビは全てを一つにまとめるベクトルで行動してるのです。それは「親心」を極めて精密にトレースした賢い行動なんだと思います。でも、それじゃー六道仙人にはなれても六道仙人を越えられないと思うんです。六道仙人が想定しなかった結末があるかも知れないじゃない。何事にも「完璧」とか「絶対」ってのは存在し得ないものなのよ。

「賢いってのがそういうことな…
オレは一生ばかでいい…」
(第27巻/42頁)

「偉大なバカ」が世界をパラダイムシフトに導く…。

何故、「兄」と「弟」なのか?
ナル×ジャン ケルベロス



  

 

第489話「忍界大戦へ向けて…!!」(100406追記) | BLOG TOP | (SAKEWO)YAMEMASU

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