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第373話「師弟時代…!!」

 
あの形状、あの波紋模様…!信じられん…!!
あの眼…三大瞳術の中でも最も崇高とされる眼…

輪廻眼!!

忍の始祖とされる六道仙人…
現在の全ての忍術はその輪廻眼を持つ仙人により生み出されたという…

それは世が乱れた時に天より使わされる創造神とも
全てをゼロに戻す破壊神ともいわれる…
神話の如き話だと思っていたが…
本当に輪廻眼を持つ者が存在するとは…

三大瞳術…「白眼」「写輪眼」そして、「輪廻眼」になるのだと、僕は思いました。でも、今さら「三大瞳術」だの、「最も崇高とされる眼」と言われても…。しかも、忍術を全て生み出した仙人の「眼」ですから…。凄い「眼」と言うのは分かります。強引だと思いますが、喉元過ぎれば何とやら…です(笑)。「創造神と破壊神」…まるで陰陽の「太極」ですね。

ところで、ここで気になる大蛇丸の存在。

「ありとあらゆる全ての術を…そして真理をこの手に入れる為には長い長い時間が必要でね…
その長い年月をかけ全てを知り尽くした者こそ"究極な個体"と呼ぶに相応しい…」

禁術・不死転生の開発現場で三代目に大蛇丸がいった言葉です(14巻/74頁)。この考えに基づき、大蛇丸は「道」を求めるのです。「全ての忍術」を六道仙人が開発したとして、その輪廻眼が全てではないにしろ、その偉大なる血継限界であるペインについて、大蛇丸は「暁」で何を思ったのでしょうか?しかも、三人の難民の子供たちとは「殺す?」と一瞬でも対面してる間柄です。そもそも、「暁」で両者は会っているんだろうか?大蛇丸とペインや小南との関係は難解です。ここは別件の考察にまとめてみます。

ここでちょっと「六道仙人」について考えてみましょう。外見はシルエットのみですが、輪廻眼です。首の6個の勾玉の首飾りをしています。背中には刀?をさして…。気になるのは頭に「角」がはえているように見えます。ヘアスタイルは長門っぽいんだけど、これが髪の毛だとしたら、凄い寝癖ヤローと言う事になってしまいます(笑)。

ところで、「六道」って言葉…ウィキの記述を引用させて頂きます。

六道(りくどう、ろくどう)は、仏教用語で6種類の世界のこと。仏教成立以前の古代インド思想を起源とし、原始仏教においてはさほど重大な意味を為さない。体系化が進行したのは後代と考えられる。

この世に生を受けた迷いのある生命は死後、生前の罪により、地獄道(じごくどう)、餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅道(しゅらどう)、人間道(にんげんどう)、天道(てんどう、天上道、天界道とも)の6つのいずれかに転生し、これら六道で生死を繰り返す(六道輪廻)と言われている。たとえ天道であっても、苦しみの輪廻する世界を脱することは出来ない。諸行無常の原則により、どの世界に生まれ変わろうとも、何時かは死に絶え、別の世界(或いは同一世界)へ転生する宿命。上記6種の世界は、須弥山世界観等においては、しばしば空間的領域として捉えられる。 この輪廻の道から外れたものを俗に外道(魔縁)という。

六道
資料画像の図のような輪廻を表した絵では、怪物と骸骨が縁起の根である無知(無明)と無常を、外周の円環が人の行い(縁起)を、次の内側ドーナツが六道(この絵では天と人と阿修羅が同じ場にある)を、最も内側の円環は人を、真ん中の円は苦しみの因なる怒り(蛇が象徴)と無知たる愚かさ(豚)と貪欲さ(鳥)を表している。(ウィキペディア「六道」より引用)

噛み砕いて言うと「煩悩」を持つ身が修行する世界=「六道」と考えて良いと思います。「煩悩」=「罪の深さ」によって生まれるステージが決まるシステムで、僕らは「人間界」に生まれ落ちた事になるのです。ここは「四苦八苦」に苦しみ、逆に「喜び」や「楽しみ」もある世界なのだと言います。また、ここから「仏」になる道(解脱?)と言うのでも残されていて、その意味では苦しみの少ない(けど退屈な?)「天道」よりは救いがあるのではないでしょうか。修行を必要とする命が生きる世界…いかにも仏教的な世界感ですね。現実問題として、みんな「迷い」の中で生きている。煩悩まみれの僕が言う事ですから、『確か!』ですよ(笑)。

で、ペインの「眼」が輪廻眼である事から、六道仙人の系譜(血継限界)にあるとして、あのペインの寝室の「壱から六」の人形…今、自来也に迫るペイン(多分「弐」)たちは、それぞれの六道になぞらえたペインの姿ではないかと考えます。「六道」と言う名前や六個の勾玉から湧き出た妄想です。「壱」のペインを「人間道」とすると、「弐」は「修羅道」かな…と、憶測ってるのです。これは「侵入者を殺すため…」と言うペインの覚悟に対応したボディセレクトだと感じたのもあります。言葉の響きだけからの妄想なんで…スミマセン(汗)。

「お前たちをに忍術を教えてやることにした」

自来也は三人に忍術を教える事にしました。輪廻眼の長門を見極めたかったのもあると思います。このまま、何の力も与えずに荒廃した世界に放置する事は無責任と感じたのでしょう。「この前のようにいつ危険があるやも知れんからの。己の身を守る為の忍術だ」と言う自来也の言葉に長門の反応が微妙でした。やはり、自分が手に掛けてしまった忍の事が気になっているようでした。

あの時……弥彦が傷付けられた時、ものすごく相手に腹が立ったんだ
その後、頭が真っ白になって…無我夢中で……(それで気が付いたら相手が倒れていた…)
その後、すごく恐くなったんだ…憎くて我を忘れて僕が相手を…!!
ボクのしたことは間違ってて…!ホントはもっといい方法が…!!

「長門…!!」と良いながら、自来也の分厚い掌が長門の背中を支えます。自来也も人と人が殺しあう戦乱の中に身を置く忍です。優しい心をもった人間であります。大きな「力」も所有しています。自来也も長門と同じような悩みを抱え、それを消化(採り込んで内に向けた)して来た。自来也は長門に過去の自分を重ねていたのかも知れません。

ワシもそれが正しいのか間違っているのか良く分からん
だが、お前のお陰で弥彦は死なずに済んだ
友達を守った……お前は正しいことをしたハズだ
誰もお前を責められはしないのォ…傷付けられれば憎しみも覚える…
逆に人を傷つければ恨まれるし、罪悪感にも苛まれる
だがそういう痛みを知っているからこそ人は優しくできることもある

「それが人だ」

優しさとは想像力だと、僕は考えています。自分が転んで擦りむいて血が出た。痛かった。他の子が同じように転んだ時に「痛いだろうな?」「大丈夫かな?」と想像できる「心」を「優しさ」或いは「思いやり」と言います。だから、「それって…どういうこと…?」と長門は聞き返しています。それは「魂」が知り得ないからです。「優しさ」とは「本能」ではなく、訓練によって修得される「心」のスキルなのです。「優しさ」とは天性ではないのです。

「成長するってことだの」

禅の問答のようですが、自来也の言葉は間違ってないと思います。喜んだり悲しんだり、傷付けたり傷付けられたり、人はそうやって「心」を分厚く大きくして行くのです。「心」とは「記憶」なのです。脳の機能なのです。

『どうするか…自分で考えることだ』

これは「成長するって…つまり…どういうこと?」と言う長門のしつこい質問に、自来也が切れたわけでもなく(笑)、これは教えられるものではない。否、教えるべきではないと、自来也が判断したのだと思います。同時に、「自分で考える」事自体が「成長」である側面も示唆しています。つまり、アイデンティティの獲得です。この自来也の一言は意味深いです。これはプラス面だけでなく、マイナス面も内包している…。功績と罪を合わせ持つ…と。

「弥彦はボクと小南がお腹を空かせて泣いている時に助けてくれた。
人の食べ物を盗んでまで…
ボクはただ二人を守りたい。
どんなに痛みが伴うことがあったとしても」

長門の「考え」に、暖かい視線と共に「…そうか」と語る自来也は、長門の中に在る「優しさ」を感じ取っています。自来也はこの姿に修行を本格化させる決意をしたことでしょう。「力」を与えても大丈夫だと判断したのだと思います。長門は小南と弥彦との連帯感の中で「優しさ」を修得してきたのです。

「ワシの影分身をやるまでになるとはの…」

弥彦が水のチャクラ特性(水遁・水乱波)、長門が輪廻眼(血継限界)と風のチャクラ特性(風遁・烈風掌)。小南は「紙手裏剣」で不明(笑)。長門は小南の紙手裏剣に風のチャクラ特性で支援(連係)していました。小南は既に花の髪飾りをしてますね。自来也のあげた乾パンの包み紙なんでしょうか?(←この「花」には小南の執着があります…)立派に性質変化を使いこなし、水面歩行も平然と行っている。「どうよ先生!!」(弥彦)と、自来也の分身をやっつけた三人の忍者装束も様になってます。三人とも背が伸びた。少し大人っぽくなった。

「これで安心して里に帰れる」

特に長門の成長が著しいです。表情も自信に満ち溢れています。三人の成長に目を細めながら、「これからはお前たちだけでやっていけ。この三年間、良く頑張ったの」と自来也は付け加えます。出合いから既に三年の月日が流れていた(汗)。

もしかしたら、自来也は三年間付きっきりで修行を付けたんでしょうか?でも、忍界大戦の最中の筈だし、木の葉の仕事だってあったでしょうから、ここは例の蝦蟇の時空間忍術による移動で行ったり来たりしてた…と考えるのが妥当でしょう。この修行の必要性から編み出したと言うのもアリでしょう。

おっと泣くな弥彦。弱虫だと思われるぞ
小南…お前は美人になるだろう…大きくなったら、また会おうの
この国は貧しい…この先、悲しいことも多々あるだろう
だが今度はお前たちの力でこの国を変えて行け

こう言い残して、自来也は三人と別れたのでしょうが、三年間、付きっきりで修行したとしても、高々、三年です。普通なら、親の庇護の下、子供は時間をかけてゆっくりと「生きる術(すべ)」を学ぶものです。術(すべ)とは「力」だけではありません。これを「親」はキモに命じる必要があると、僕は思います。

人は社会を構成して、その仕組みの中で生きる動物ですから、個人の「優しさ」や「思いやり」よりも更に大きな考え、つまり、社会通念や倫理観、モラルと言った…「社会性」を修得する必要があります。そのベースは知性だし、優しさであるんだけど、それにもっと具体性を持たせた「通行証」みたいなものです。人として生きる上での(エ)チケットと考えても良いと思います。

でも、この時代の時勢。三人がポツンと暮らす庵から推察するとそれは望めません。自来也も「己の身を守る為の忍術」に特化したカリキュラムで集中指導したのかも知れません。

自来也は三人の難民の子供に「力」(忍術)だけを与えてしまった…。

これは、この時のベクトルにおける最善であった事でしょうし、こうしなければ、この子らは生き残れなかった…。しかし、それが「暁」を生んだ…。種を撒いたのは自来也であると言えます。ここまで来て、改めて大蛇丸の「殺す?この子たち」の深さを感じてしまいます。あの時、大蛇丸はどこまで解っていたんだろう…。そして、その後、どんな「動き」をしたんでしょうか?

場面は、小南と自来也が対峙する雨隠れの某所に戻ります。

「あれから数年。お前たちの名をちらほら聞くようになった。
いくつかの紛争で名を売ったが、その後死んだと聞いた…」

自来也も三人の消息を絶えず気に掛けていたのでしょう。戦乱の時勢ですから、戦いたくはないと思っていた筈です。「死んだ」と聞いて「ホッ」としていたかも知れません。

「先生はあれからの私たちを知らない」

小南がペラペラの紙切れになっていたのを自来也は知らなかった。ペインが何者なのかも解らなかった。小南のこの言葉には、今は見えない弥彦の所在が隠されている事でしょう。自来也と三人が寝泊まりした庵の川の字の布団の並びは、小南→弥彦→長門でした。小南は弥彦に精神的に頼っていた部分があった筈です。長門も弥彦を頼っていた。弥彦は二人にとって「太陽」だった。それが、今は居ない…。

「確かに知らないがのォ。"暁"のやっとることは間違っとる!」

これが一般的な「倫理観」や「社会通念」と言うものです。自来也はこの「考え」をこの子らに教えたのでしょうか?しっかりと教え導いたんでしょうか?これまでの「三代目→自来也」の流れを見ると、「親」としての役割を自来也が如才なく遂げたとは思えません。(これじゃまるで、ピノキオを生み出したゼペット爺さんと一緒じゃないか!)これが事実とすれば、大きな「罪」を自来也は犯した事になる…と思います。ここが僕の心の古傷(もう癒えています…)に障る部分。むず痒いところです(汗)。

「それが自分で考えた結論ですよ…自来也先生」

そこに、ペインの登場です。ところで、輪廻眼は通常で覚醒状態にあるようです。写輪眼のように「黒目→写輪眼」のスイッチがない。そして、ペインの束ねた髪が尻尾のように靡いています。風なんかふいてない…薄ら寒い闘気を感じます。しかも、四つん這いになっている…(汗)。急いで駆け付けた筈なのに息も切らしていない。汗も流していない。

「外見はだいぶ変わったが、その眼…やはりお前がペインだったか…長門
正しい成長はしてないようだの…何かあったか?」

自来也はペインの「眼」を見て、それが「長門」であると断言しました。自来也がここまで言うんですから、これは長門です。ペインとは「痛み」…小南が言う「あれからの私たち」を意味するネーミングでしょう。ペインは「痛み」を感じ続けている。もしかしたら、ピアスにもその意味合いがあるのかも知れません。

そして、自来也が与えた三年間の慈悲。今、これが問われている。自来也が言う「正しい」を自来也自身が考える必要がある。自来也が単身、この場に乗り込んだのは、きっとこの「心残り」を問うためだと、僕は考えます。

「陰陽論」を勉強してみて解った(気がするだけ…)んですが、「陰陽」は対で対等が好ましい。と言うか、そうある(べき)ものです(理)。「精神」と「身体」もそうだし、「魂」と「心」も同じ。どちらかが多くても少なくても問題がある。「心」とは意識で後天的なスキルだから、然るべき存在=「親」がその量と質を見極めながら、「心」が「魂」とバランスするように調整して行く必要があると、僕は思います。「魂」は生まれ持った天性だから、後から調整なんてできない筈だから…。

「自分で考える」と言うのはその後のシーケンスです。だから、あの雨の中で自来也が長門に伝えるべき内容ではなかった…と僕は考えています。そして、「心」や「自己(アイデンティティ)」の確立していない状況で「力」だけを自来也は与えてしまったのです。

時代が悪かった。自来也も若かった。親を亡くしてしまった三人も運がなかった。全ては仕方ない事なんだけど…。救われるのは、自来也が一言も言い訳をしていないところです。恐らく、自来也はその贖罪の為にこの場に居る。だから、独りで赴いた…。

「アナタは知らなくていい…しょせん外の人間だ」

ペインは自来也を相当、高い位置から見下ろしています。これは戦闘機の格闘戦闘のセオリーなんですが、会敵した時点でアフターバーナーオンで一気に高度を上げる戦法が一般的です。高度(位置)は高い方が有利なのです。位置は運動エネルギーに変換し易いのです。ペインの「輪廻眼」がどんな能力かは未だ未知数ですが、自来也、不利です。小南を一瞬で燃やさなかった甘さも見逃せないです。ヤバい。ヤバ過ぎる…。

そして、ペインが「先生」と言わなかった。思い出せ、長門……。

あの雨の中の別れで、お前が自来也に言った言葉……。伝えた気持ち……。

「ありがとう…先生」


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