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第562話「己を拾う場所」①

 
「ワシが相手をする!!」(オオノキ)

「無茶だって!!
ボロボロじゃねーかよ
もう!!」(テマリ)

<ザッ>(カブト)

<ザッ>(マダラ)

「………!」<ハァ><ハァ>(ナルト)

<サッ>(ナルトに駆け寄る我愛羅)

「もう少し術を試したいんだが……
もう踊れそうにないな…
オオノキよ…」(マダラ)

ナルトの(今にも…消えちまいそうだ…)の頑張りに揺り動かされたのか、オオノキのやる気スイッチが入りました。先週、心配した「ワシらがやる」「ら」に我愛羅も入ってんのかしらと心配しましたが、そこは人格者・オオノキですんでちゃんと「ワシが」に修正してきました(笑)。これは我愛羅は同じ影だけど死なせないという宣言なんだと思います。一方、我愛羅が影分身のナルトに駆け寄るのは護謨のドダイが戦力としてナルトを保護したのとは違うベクトルで、恐らく親友としてナルトの身を案じた自然な行動でしょう。我愛羅は人柱力経験者ですんで、尾獣チャクラを享受する九尾チャクラモードが持つリスクを充分に認識してるんだと思います。影分身でも本体のモニタリングは可能なのでしょう。

我愛羅もナルトを心配してる場合じゃないくらい疲弊してる筈で、マダラの隕石落としで一命を取り留めた第4部隊の残存勢力は押し並べて気力体力チャクラ共にギリギリでしょう。そんな現状を見透かすのがマダラで、息も絶え絶えのオオノキを高みから見下ろします。しかし、火遁”須佐能呼”輪廻眼・六道の力(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)と木遁の他にどんな隠し球があるんでしょうか?うちは一族のベイシックには火遁チャクラがあり、炎遁で火遁を操る血継限界チャクラの一方に風遁があるとすれば、超攻撃的な風遁忍術とか、天照や大規模火遁攻撃を炎遁、或いは風遁の補助で威力を増すコンボがあるんでしょうか?マダラと言えば芭蕉扇(うちは)を口寄せするのかもね。


「………」(オオノキ)

「……
何だその顔は…
昔一度力の差を教えてやったハズだが…?」(マダラ)

「なぜ!?…話が違う!!
柱間殿は……」(オオノキ)

「同盟などない…
木ノ葉の力の前にただ従え!
それと…オレの前で
その忍の名を口にするな!」
(マダラ)

エリート意識の極めて強いうちはの頭領らしいマダラの高い所からの物言いに、オオノキは封印した記憶の扉を抉じ開けられます。描き方がめっちゃ淡白でオオノキが「己」を捨てざるを得なかった経緯がイマイチよく解りませんが、きっと先の隕石落としのような神々しいチャクラを見せつけられたんじゃないでしょうか。前に寝起きの悪いサスケに恐怖心を持たない筈のサイが怖じけ付く幻術だかチャクラだかを見せつけられた威圧力がうちはの瞳力にはあるのだと思われます。しかし、「血継淘汰>血継限界」の割にはオオノキの横に突っ立ってる二代目土影・無(ムウ)様なんてちょっと木偶の坊過ぎますね(笑)。何気に背中の二刀掛けがカッコ良い…もしかしたら無(ムウ)様の大戦装備なのかも知れませんね。

それとオオノキが「己」を捨てたのが、まだうちは一族の頭領として木ノ葉にマダラが留まっていた時系列であることが分かります。マダラは一応、万華鏡写輪眼ですかね。絵柄が小さくて三つ巴文様なのか、マダラの万華鏡文様なのか判別ができませんが、無(ムウ)様を木偶の坊にさせ、オオノキの「己」を捨てさせる圧力を考えれば万華鏡写輪眼であるべきかな…と思います。しかし、永遠の万華鏡写輪眼の文様ではないのでイズナが存命してる時期で、柱間VSマダラの「終末の谷の決闘」のかなり前ではないかと思います。オオノキも「柱間様」と呼び「火影」とはしてないので、柱間とマダラの抗争が激化する前でしょう。勿論、一国一里のシステムができる前だろうから指揮系統を含め混沌とした頃と思われます。


「…ワシら忍はずっと戦いに明け暮れてきた
自国と自里の利益のためだけにずっと戦い続け
他国と他里など省みずただ奪う!


奪っては奪われ…奪われては奪い返す…!
憎しみは膨れ上がり三度も戦争をした!」(オオノキ)

「それが生きていくということだ
その歳まで生きて過去の痛みから何も
学んでいないとはな」
(マダラ)

「アンタよりは長く生きてる!
…学び一回りした!
過去の痛みを知るからこそ
どう先へ繋げていくのが最善かを
考えることができる!」
(オオノキ)

「で…また四度目の戦争だ…
これが最善ですか?」(カブト)

「この戦争は違う!
かつて戦争で奪い合ってきたものとは別のもの
皆が手に入れるための戦いじゃぜ!!」(オオノキ)

「………?」(マダラ)

「こいつらを見ていて
時はただ刻むだけではないと分かった……
世界は過去を重ねて
ゆっくりとだが成長をしておる

…平和へ向けてのう」(オオノキ)

オオノキはマダラを前に自分の成長を語ります。「一回り」の解釈ですが、マダラとの接見の雰囲気から考えると100年でもいいかな…と思います。オオノキが100歳で、「己」を捨てた小僧時代が10歳と仮定すれば、マダラとの接見は90年程前の時系列になります。「胸騒ぎ」の行でガマ寅(巻物蝦蟇)が自来也にマダラ存命説を真っ向から否定してますんで、『NARUTO -ナルト-』の世界観の寿命も100歳辺りがボーダーで、その意味でオオノキは大変長生きで充分天寿を全うしたと言えそうですね(笑)。その影に弛まない研鑽と学びがあった…だからこそ、マダラの諦めの中に満足を見出すような情けない生き様を否定できる自分の生き様を見つける事ができたのだと、僕は思います。

オオノキは一時、”暁”に傾倒し、安易に利益を得る方法を選択しました。しかし、それは各国が抱える財政難やそれに伴う軍縮の流れと、優秀な傭兵としての”暁”のコンパクトさが上手くマッチしていたからで、当時、天道・弥彦が高らかに掲げた「世界征服」の前段階にあった「戦争のコントロール」を企図した”暁”のマーケティングの勝利であり、各里がこぞって水面下で”暁”と繋がっていた事実も一定の合理性が感じられます。その考え方のベースには自分の仲間の血を最小限に留めたい利己的な愛があったんだと、僕は思います。そうじゃなきゃマダラと同じ思考で永遠にループした事でしょう。オオノキが若僧・我愛羅の一言に改心できたのは、オオノキが自分以外の誰かを愛せる人だったからだと思います。

我愛羅がナルトを大切にする気持ちがオオノキに希望を与えているのです。自分以外の誰かを感じ、交わり繋がる。そうやって人間は世界を築いているのです。誰かが誰かを愛する…その連鎖が絆なのです。オトナならば子供の頃から自分の周囲に空気の様に存在した愛に感謝できる「今」があるかと思います。そう気付けるのは誰かに愛を与える自分が居るからです。だから、人生は後悔そのもだと皆知っている。空気のようだから気付けない「愛」がある。その幸せに感謝して欲しい。自分が気付いてからでいいから。僕らが現にこうして生きている事実は「愛」の存在を証明しているのです。僕らは「愛」を当たり前の様に享受しているのです。この極めてシンプルな世界の成り立ちを受け容れる時、人は誰かを愛している筈です。

オオノキの愁訴とは、「愛」に目を背けるマダラへの痛烈な批判でありましょう。恐らく、「うちはの石碑」にはより強い瞳力の獲得を教唆する内容が記されてると思います。写輪眼を覚醒したら、万華鏡写輪眼。万華鏡は時限付きで閉じる袋小路。でもそれを回避する手段がある。永遠を手に入れたら次は輪廻眼。神の力を授けよう…しかし、その対価として「愛」を捨てさせる仕組みになっている。うちは一族の消滅とは「うちはの石碑」の必然の上にある訳です。うちは一族の悲運とは「うちはの石碑」のミスリードによる人災であります。その張本人が六道仙人なんだけそ、何でそんな事をしたのかはお話の旨味を削ぐので今は書けない…。でも、人は、世界は時(過去)を重ね成長する。極々、自然な事なのです。


「世界は
これ以上成長する必要などない

無限の月読みの幻術の中で
眠っていればいい」
(マダラ)

<スッ>「…かつて…
アンタがワシに己を捨てさせた…
じゃからアンタに勝ち…己を拾う!


眠るのはアンタじゃぜ…!」<フラフラ>(オオノキ)

「………」(我愛羅)

<ガクン>「くっ…」(オオノキ)

「土影殿!!」(ドダイ)


<サー…>「!」(オオノキ)

「さあ…
一緒に拾うとしよう」
(我愛羅)

「年寄りに若い奴らが世話をやきすぎると
文句を言うのが決まりなんだが…!」

「フン!
今回ばかりはおせっかいも
認めてやる!!」(オオノキ)

「…まだ踊れそうだな」(マダラ)

「己の為に!世界の為に!
お前はここで倒す!」(
オオノキ)

マダラは「うちはの石碑」の指示の通り「力のヒエラルキーの頂点」を極めた忍。六道の力。神の力。そのやり遂げた感が自らの成長を否定するのだと思います。無限月読が示す「月の眼計画」はそんなマダラの立案だと考えて差し支えないでしょう。ちなみにマダラとトビが一枚岩でないのは、輪廻眼を備え、自ら六道を名乗るトビがその瞳力で外道・輪廻天生の術を発動し、マダラを復活させない事実からも明らかでしょう。ここで僕はオオノキの男前な見得に心底感動しました。オオノキは自分が与えられた愛に気付き感謝できる人であり、誰かに愛を注げるオトナに成長できた人なのです。チャクラがどうだとか、忍術とか剣技とか体術とか、そんな下らないスキルじゃなくて「人間の力」に目覚めた人なのです。

時はただ刻むだけではない。時(過去)を重ねて人は、世界は成長しているのです。すっごい昔に書いたお話だけど「サスケは何故、甘ったれなのか?!」(アイデンティティ)で、「足し算」「引き算」の考え方が人生にはあると、僕は考えております。「過去を重ねる」とは正に「足し算」であります。よく「歳をとる」と申しますが、正確には年齢とは「重ねる」ものであります。人間、死ぬまでズーッと勉強です。それは成長しているという事です。オオノキは既に「己」を取り戻したと言っていい。そのくらい男前な見得でした。それが届かないマダラってどんだけ鈍いんだか…(笑)。何でも見える筈の輪廻眼が一番のミスリーダーなんてお節介もマダラには決して届く事はないんだろうな…。

ちょっとが要るので区切ります。



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