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第587話「9時になったら」④

 
<スッ>(カブト)←眼鏡、眼鏡…

(こんな…こんなとこに
閉じ込められなきゃ…
今頃 戦争に勝って…)
(カブト)

<カチャ>(カブト)←眼鏡、眼鏡………

「とっくに寝てる時間だったのに…」(カブト)


(………って…)「イタチめ…!」(カブト)

カブトの意識はイザナミの夢幻回廊を彷徨っている…。恐らくカブトが持つイタチやサスケのイメージを元に、決してカブトが勝つ事のない戦いを延々と繰り返しているのでしょう。これは「夢」と同じ仕組みなんだろうと思います。イタチはカブトが見る夢の起点と終点を重ねただけ…カブトの持つ自己に対するマイナスイメージがどんな時もカブトがイタチを上回らせないのです。走っても走っても追いつかれる…悪夢の暗殺者みたいなもんです。結局、カブトの中には既に「答え」というものが在って、イタチはそれを自覚する方向にプレッシャーを掛けているだけ。やはり「教えられる」のではなく「気付く」のが大切だとイタチは考えているのだと思います。

その為にカブトは「傷付く」必要がありまして、その「気付き」が結果的にカブトを「築く」のだと、僕は思います。今の世の中、この「傷付く」というプロセスが、あたかも悪い事の様に捉えられていて、排除する傾向が強いと思います。しかも、インターネットなんて「叡智」に簡単にアクセスできるもんだから最初から「答え」とされるものに出会える。それで解った気になるから気付く事も、ましてや築くなんて出来ない。第一、その「答え」が正しいのか?誤っているのか?吟味する眼も勘も養われていない。「傷」は治ります。心も体も若い内の方が治りも早いです。だから、ドンドン傷付いて気付いて欲しいと僕は思うのです。それにはイザナミなんて忍術はホントは必要在りません。

ホントは忍術なんか使わなくても、カブトと一緒に居るオトナがカブトを導けば済む事なんです。しかし、マザー・ノノウは”根”に取られ、同時に策謀の中でカブトはノノウを殺めてしまう。これは不幸な事でありましょう。そして、その直後にカブトは大蛇丸と出会ってしまう。この出会いがカブトの人生を大きく狂わせる。やはり、これってカブトのレディネスと大きく関係してると思うんですけど、カブトがノノウの元でもう少し気付けていたら…果たして?と悔やまれます。例えば、ナルトは「八卦の封印式」なんてモノを搭載していまして、その中に親の「愛情」を詰め込んでいました。それが「折れずに曲がらないしなやかさ」をナルトに与えた。メチャクチャな「チート設定」なんですが…何か。

大蛇丸ってインターネットと似てるな…と思うんですね。面白い。楽しい。ワクワクする。物知り。何でも与えてくれる。何でも教えてくれる。友達。親友。恋人…その「真贋」を見極める力がなければ危うい。モニター越しに、傷付かずに得られる情報なんて高が知れてます。もっとこう…リアルに傷付いて、擦れて擦りむいて血を流して怪我しなきゃ。それを「骨を折る」と、昔の人は良く言ったもんです(笑)。しかし、その「お骨折り」無くして決して気付けないものがあるのだと、僕は思います。多くのオトナは少年少女を愛を携え、それに気付いて欲しいと見守っているのです。特に親御さんは、イタチのイザナミと同じ様に…自分の片眼を与えても構わないと思う「親心」を持って。

もしかしたら、「目の中に入れても痛くない」とはその事かと(笑)。リアルの「親心」「忍術」を比べるのもちょっとアレなんですけど、『NARUTO -ナルト-』の世界観として「忍術」とか「チャクラ」が均等に底上げしてまして、その下の土台は同じと考えて御納得ください。ここ、理解してないと『NARUTO -ナルト-』の示す「愛」にリアリティが無くなってしまいます。そんな事を考えながら、カブトの「眼鏡」に付帯する描写を見てると、何気に「お笑い」ぽくって笑える。カブトがイザナミのループで傷付く中、イタチがせっせとサスケを(いぶ)してて、カブトがちょっと可哀想に思えてた所で、カブトが水たまりに顔を映すシーン。これってノノウを殺めた直後ですよね。

自分が何者か分からなくなった所。カブトは水面に映る自分の顔をしっかりと見ます。そこには大蛇丸の隈取りはありません。「9時」というのは孤児院の就寝時間。それはカブトの数少ない誰かに守られた記憶。カブトの「心」大蛇丸との出会い以前に戻っている証拠。しかし、これはイザナミの中のお話で、イタチの幻術がカブトに見せる夢…と同じ。これにカブトが同調と反発を繰り返してる姿が、どうしても「ボケ→間→突っ込み」の一人芸に見えて、カブトは眼鏡を落として「眼鏡、眼鏡…」(ヤッサン)とするのは、漫才の「ノリ突っ込み」に見えまして、幻術に反発し、「イタチめ…!!」と苦虫を噛み潰すカブトの台詞の前に「………って…」を挿入したくて仕方なくって(笑)。

「もう9時か…」(ウルシ)

「どうした?」(イタイ)

「イヤ…さっさと
この戦争を終わらして
ゆっくり寝たいと思ってな…
オレ達末端の忍にはもう何が何やら…
詳しいことはいつも分かんねーしな…」(ウルシ)

「…まあな…
お前…この戦争が終わったらどうすんだ?」(イタイ)

「とりあえず家に帰るかな

戦争が終わって
五大国がこのまま仲間でいるなら…
ずっと任務で会えない弟も
帰ってくるかもしれないしな」(ウルシ)

「帰る所がある奴はうらやましいな…」(イタイ)

「………

お前も来るか
…オレと一緒に」(ウルシ)

「え?」(イタイ)

「オレの家は孤児院だからよ
それに弟がいたら
傷をみてもらうといい…」
(ウルシ)

「………
ありがとう…ウルシ」(イタイ)

「………」(ウルシ)

(今度こそ帰って来るといいな……カブト)(ウルシ)

ま…カブトはノノウを殺してしまったショックで、マザーによって繋がれた「孤児院」という大切な想い出も無くしてしまったんだと思います。そこには「大蛇丸」と出会った不幸(なのか?)も在りまして、カブトには同情を禁じえませんが、カブトにも忘れちゃいけない繋がりがあったんです。それがウルシです。ウルシってカブトが拾われた時に偉そうにしてたあの子ね。それが今でもカブトを「弟」と呼んでます。しかも、カブトの医療忍術の腕を自慢さえしてる。ウルシはカブトをしっかりと見ていたんですね。そして認めてた。その想いがカブトには届かなかっただけ。結果的に”根”大蛇丸がそれを邪魔してたんですが、それを言うなら、ナルトやイタチはどうなるのか?

…というお話にループします。ここら辺で解ると思うんですが、他者と比べた中に「答え」というものは在りません。自分にリアリティを持って相対的にではなく、自分の内部に価値観を見出さないと「幸せ」なんて量れません。確かに繋がりの中で、他者が感じる事で「自分」は形作られます。しかし、それを感じるのもまた「自分」なのであります。人は決して自分一人で生きてはいません。しかし、同時に「自分」が存在する事で感じられる「世界」とか「他者」が在る事も忘れてはいけない。それが「個」であります。「個」が在るからまた「全体」も在るのです。それは「認識」が常に双方向・全二重であると考えて良いと思います。「個」があるから、「繋がり」が成立するのです。

僕は「貰うだけ」の関係は一般的ではないと考えます。与えられたら返す。恩には義理を返す。行って来い。バーター。人の関係性とは正に持ちつ持たれつであり、「人」という字が「支え合ってる」(by金八)のもそれを如実に物語ってるんだと思います。カブトの「非」とは「与えられる」ところ留まったとことあったと思われます。マザー・ノノウには「与える力」が在りました。しかし、孤児院のウルシ以下仲間達はそれは備わっていなかった。その不備がカブトにマザー以外の認識を許容しなかった。しかし、それはカブトも同じで「与えられる」ところに踞(うずくま)って居たのは同じ。それじゃ行って来いの「繋がり」は形成されない。それが人の常…常套(じょうとう)なのだと思います。

結局、ウルシにしてもカブトにしても「不全」な状態だった訳です。ナルトの場合、それを「八卦の封印式」が補っていたんですが、その狡さは「忍術」を扱う世界観の中で一応認められます。それはカブトが他者から「能力」「情報」を取り込むのと一緒。つまり、どこで「チート」を使うかの違いだけであります。これらは「忍術」が使えない我らリアルにもパラレルで適用可能です。僕らも「与えられる」事に甘えてちゃいけない。自分が「与えられる」存在にならなきゃ回らない。繋がりとは双方向で在るべきなのです。それは「個」「全体」が等価で並列に存在する事を意味します。カブトに「繋がり」が構築できなかたのは「与えられる」だけに甘えて居たからに他ならないのです。

そして、カブトにはウルシという「兄」が居ました。それをカブトは知らない単なる「情弱」であっただけなのです。この想いが繋がらないのは。カブトがウルシを信じていなかったからであります。ウルシはとっくにカブトを認めていたのです。自分の名前すら言えなかったガキが、いきなり医療忍術が使える。マザーに「眼鏡」なんて高価な品をプレゼント出来る。傷を治せる。病気を癒せる。誰かの為になれる…立派に人の為に働ける…自分より有能で才能にあふれている…そんなカブトをウルシは頼もしく感じていた。ウルシはカブトを信じていた。存在を認めていたのです。しかし、それが双方の「不全」を理由に繋がれなかっただけ。これは非常に不幸な…不幸な事であります。

「人間は独りではない
誰かは繋がる人が傍にいる
それが”愛”なのだ
だが、人は時に繋がり方を見失う

愛がない―

これ以上の不幸はない」

僕はいつだったか…ネットを彷徨う中でこんな言葉を拾いました。これを知った時、何だか自分の欠けたピースが補われた気がしました。不満とか、不幸とか、不服とか、不足とか…いろんな「不」を僕らは感じてるんだと思います。でも、その「乾き」とは「知らない罪」なのであります。この世界の何処かに自分と繋がる人が居る…そう信じるだけで人生とは一変する。そう成り易い様にオトナは子供に配慮する必要もある。子供はもっともっと学ぶ必要もある。素直で在る必要もある。そういう「訳知り」が排出されねば不幸は無くならない。僕らは『NARUTO -ナルト-』という「叡智」に接しているのだ。「繋がり」を俯瞰している。だからこそ、カブトの「不幸」には留意が必要なのです。

「これより穢土転生の術を止める」(穢・イタチ)

イタチがどんな風に穢土転生を止めるのは、もうどうでもいい。僕はカブトの「処遇」というものに興味がある。それはイタチがどんな風にカブトを「救う」のかって事だ。僕はその一点にイタチ兄さんの真骨頂を見出したい気持ちでいます。不幸にもカブトは大蛇丸と出会ってしまう。それは言い換えれば「野望」とか「野心」との出会いでもあります。同時に「忍術」「能力」「情報」を他者から奪い自分に取り込む方法論を提示しています。つまり、カブトは「自分」「分」を忘れ思い上がったのです。世界を、全ての真理を…つまり「六道の力(=六道仙人)」をその手にできるものと勘違いしたのです。それがカブトの暴走を助長しているように思います。

今にして思えば、それは”根”のダンゾウにも言えます。自分にない「能力」とか「情報」を良いように自分に取り込んで我がモノとできる「世界観」は人を思い上がらせるのかも知れません。カブトは酷く素直で無垢な仔だったから、大蛇丸のちょっとした導き(教唆)で染まってしまったんだろうな…と思います。しかし、それは大蛇丸をしても同じでした。全てを「独り」で成し遂げよう!!成し遂げられるのだ!!と思い込んでいました。それが結果的に「不全」アイデンティティを形成していた原因だった様に思います。僕がアイデンティティを知るのは「悲しい」とお伝えしたのは、それが自分の「分」を知る事なんだけど…全ての忍が「六道仙人」には絶対に成れない。

恐らく…十中八九…否…鉄板で運命に選ばれるのはナルトとサスケだけなのです。それを認めずして真のアイデンティティというものは実現しない。僕はそう考えています。しかし、ナルトやサスケをサポートすることぐらいは出来る。その為に自分の「分」を弁(わきま)えるのは悲しい事でもあるけど必要なのであります。それが出来ないとカブトみたいになる。僕らはスプーン一杯どころか、耳かきの先でもない、縫い針の先に乗る程しかない…極めて狭小な居場所を取り合っているのです。アイデンティティの一方は、それに自分が当たらないと認識する(=諦める)事でもあるんだけど、時にそれを見誤らせるファクターが転がっています。カブトはそれに躓(つまず)いただけなのです。

それを一般的には「欲」と呼ぶ…。

第587話「9時になったら」
ナル×ジャン ケルベロス


 

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