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第589話「穢土転生の術・解」④


<キーン>(君麻呂)

<ファ>「!!」(君麻呂)

「!?」(侍A)

「何だ!?」(侍B)

<ファ>(君麻呂)

<ファ>「!

!?
これは…?」(チヨバア)

第四次忍界大戦の穢土転生軍団を総括させて頂くなら、詰まんなかったなの一言でFA(笑)。そこには生死を懸けた一生懸命などなく、生者は死のリスクだけを背負い、穢土転生は死のリスクと無縁なのである。しかし、単なる塵芥の塊でありながら、生前の能力を無制限に発揮できる。これでは「命」が余りにも軽々し過ぎはしまいか?否…軽々し過ぎる。チャクラ忍術が如何に万能であろうと切っては成らない「手札」だったと、僕は考えています。しかし、大蛇丸は第一部・木ノ葉崩しで、あろうことか初代と二代目の火影を召還してしまう。屍鬼封尽の制限がなければ四代目も大蛇丸は召還しようとすらしたようです。そして、大蛇丸→カブトのホットライン穢土転生軍団でした。

しかし、穢土転生と生者が戦う意味が見えて来ない。”暁”外道魔像に溜めた尾獣のチャクラと生きた柱間の細胞を培養体を組み合わせ白ゼツ軍団を量産し兵隊としたのも「命」の重さを天秤にかけられるなら決して釣り合う事の無い「力」なんだと、僕には思えてなりませんでした。それは物語の面白味に直結していて、懐かしき君麻呂が躍動しようとも、もう一度逢いたいと望んでいた千代様が傀儡を操ろうとも一向に<ワクワク>が起こらない。それはこの戦いが無価値で無意味だからんだと、僕は考えます。『NARUTO -ナルト-』における「闘い」とは「対話」に近いのです。お互いをしっかりと見つめ評価する。それぞれの才能や修練…性根と言ったものをお互いが吟味する。

それは闘う相手の「命の重さ」を量る…という事なのだろうと思います。「闘い」に勝った者は敗れ散った者の「命」を背負い「生」を繋いでいる。「死」とは「無」に帰する事ではあるけれど、例え刃の錆(さび)であろうと受け継がれる。ある意味、それも「繋がり」なのだろうと、僕は思うのです。『NARUTO -ナルト-』で描かれる「闘い」とは凡そそういう良識を備えております。穢土転生を除けば…。卑しさではなく気高さがある。それは真に品格を持つ貴族のようでもある。かつて発展途上にある日本に訪れ文明を伝えた欧米の伯位はフィンガーボールをコップと誤認して水を啜る土人に閉口する事無く、共に指洗いの水を啜ってくれたといいます。知性とは優しさなのです。

それが六道仙人の末裔として、凡人が扱えないチャクラを練り、忍術を発動できる「血」に在らねばならないのである。「闘い」とはかくも気高くなければならないのである。でなければ流れる血は唯唯…卑しい。気高さがない「強さ」「命」を正しき方向に導く事はできない。それでは自分をバラバラに砕いた六道仙人の想いが無意味になります。穢土転生を嫌悪する気持ち。もしこの無意味な行に意味を見出すなら、穢土転生の対極に在る「闘い」を、僕らが思い出す事に尽きるのではないか。この下らなさにも意味がある。そう考えるところに「神のご意志」が在るのではないか?!僕はそう考え、まるで青汁を飲む様に(飲んだ事ないけど…)君麻呂と千代様を見つめるのです。

小刻みに続きます(別に意味は在りません)

…また、今夜!!(ケルベロス)


 

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