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第590話「お前をずっと愛してる」⑤

 
(これはイタチの記憶…)(サスケ)

エーッと、肝臓疲労が甚だしい為に縮小版でサクッと行かせてください(汗)。イタチは写輪眼の「瞳力」を使ってサスケに自分の記憶を見せています。ま…この期に及んで「瞳力」はないだろうよ…と、チクと思いましたが、何せ暇がない。この場合、映像が一番情報量が多いですから、記憶を映像化してサスケに渡すのは合理的です。俯瞰した画で提供されるのは、イタチの記憶を元に写輪眼の「瞳力」が当時の光景を再構築しているからでしょう。それにはサスケの記憶も関係していて、イタチの脳内の記憶を利用してサスケ自身がイメージを作り出すようにイタチがサスケに幻術を掛けたのかも知れません。ちなみにイタチの写輪眼が三つ巴なので非月読系の幻術でしょう。

「もう…うちはのクーデターは止められそうにもない
このまま木ノ葉が内戦を起こせば他国が必ず攻め入って来る
…まず戦争になる

別天神を使いクーデターを止めようとした矢先…
ダンゾウに右眼を奪われた
奴はオレを信用していない…
なりふりかもうことなく自分のやり方で里を守るつもりだ

おそらく左目も狙われる…
その前にこの眼はお前に渡す」(シスイ)

「シスイ事件」の記憶。二人が語り合う絶壁の舌は例の「南賀の川」だと思います。シスイはダンゾウに右眼を奪われ、残った左目…別天神をイタチに託すんですね。しかし、ここでもシスイが死んだ描写がない。「穢土転生の秘密」の周辺で、カブトがトビにカマを掛けてましたが、トビは自来也と「うちはシスイ」の名にやや過敏に反応していました。また、ダンゾウは自分の死期に当たって自分の右眼に宿したシスイの写輪眼を消去しています。それはトビがシスイの写輪眼を欲していたことをダンゾウが知っていた証拠であり、後述されますがダンゾウの性癖と言いますかやり口にドンピでマッチします。もしかして、トビが複数いるなら、このままシスイがトビになっていてもいいかな…と僕は考えています。

カブトの穢土転生のコレクションに入っていなかった手練は存命している可能性を残すと思うんです。カブトのエリントに何度も過敏に反応したトビは、カブトが何をか言わんとするのが分かったのではないでしょうか。折しも、「うちはマダラ」の穢土転生をトビは見せられてビビってましたから、カブトが何処まで知っているか探り探りで、時折、カブトがトビの琴線に触れ境界が露になってまして、その一つが「うちはシスイ」でありました。シスイが別の写輪眼を自分に載せて、例えば「トビ」と名乗るのも、この場合、アリかな…と思うんです。ただ、それだと全てがフラットにはならないので、やはりトビが複数いて、イタチと接するトビは別の個体で、最後までイタチを騙し通せたのかな…と思います。

エリント/ELINT:Electric intelligence…電子情報、及び電子情報収集技術。航空機や衛星、情報船などで敵レーダー波の監視や、航空写真などを撮影し、それによって得られた情報を分析し必要な情報を得ること。

しかし、そうなると「シスイの信念」はどうなるのか!?という話にもなってアレなんですけど、結局、何らかの形で世界・忍界の平和に関わりたいと考えて”暁”という組織が存在する可能性も残すと思いますので、微妙に不整合はあるけれど残すと思います。それと未確認ですが”道”という組織の存在(シスイの遺書より)の可能性もあり、それが”暁”の母体で、今後出てこないとも限りません(出て来ない事を祈ります…長くなっちゃうから)。何にせよ、シスイの死体が何処を探しても見つからない…というのが、色々と考えてくれ!!というキッ神のメッセージに思えて仕方ありません(笑)。でも今さらトビが誰だとか、あまり意味なさそうだし読み飛ばしてくれて結構ですけど(笑)。

結局、トビって意識体、或いは残留思念みたいなもので、ぶっちゃけ、うちはマダラの弟であるイズナの意識が、いろんなうちはの身体…例えば、神無毘橋のオビトとか南賀の川のシスイをピックアップして使ってるんだと思うんです。だから、トビは誰なのか?というといに対しては「うちはイズナ」と答えるのが正解だと思えるし、でも外見=身体は「うちはオビト」だったり「うちはシスイ」なだけで、意識が肉体を乗り換えられる可能性を忍術は帯びていますので、こんなアイデアが浮かぶだけで、それにリアリティがあると思うか、無いと考えるかで味わいが変ります。リアル・マダラを見てると、トビの粘着系の気質がマダラのサバサバした感じと圧倒的に違うので、トビ=うちはイズナでFA(笑)。

「三代目はああ言っているが
いざとなれば木ノ葉を守るため動く…
奴はそういう男だ

そうなればあのヒルゼンとて
火影として断固たる処置を取らざるをえん

戦争になろうがなるまいが
クーデターが起こった時点で
どのみちうちはは全滅する運命にある
……何も知らぬお前の弟も含めてな
だがクーデター前なら
弟だけは助かる道もある」(ダンゾウ)

かなり割愛してますが、うちは一族はクーデターを企図していて、木ノ葉隠れを転覆させようとしていたんですね。それを事実と受け容れて、それを止める為にイタチは「うちは虐殺」を遂行したんですね。任務として。しかし、その前段階で、ダンゾウがサスケを餌にイタチを一本釣りしています。ダンゾウの交渉術って似たところで、カブトの「何も無い」で見せたノノウとの交渉でも、カブトをダシにノノウを吊り上げてて、これと全く同じ釣針でした。ダンゾウには獲物が一番食い付く餌が判るんですね。それが何を意味するかと言いますと、一番大切なものが何かをダンゾウは理解できているという事です。人が生きる上で、何を大切に想っているのか?ダンゾウには判る…。

それって、ダンゾウが「愛」を理解してるって事なんだと思うんです。その上で、対象に究極の選択を迫る。そんな交渉術をダンゾウは絶えず行っているのです。だから、ダンゾウもノノウもイタチも全く違うというよりは寧ろ似通った理解力を持ってると思うんです。しかし、ダンゾウとノノウやイタチが違うのは、その「愛」を踏みにじるか?抱き締めるか?の違いなのでしょう。ダンゾウは他者の「愛」を踏みにじった上に立とうとするから、ダンゾウが大切にするものが汚らしく見えてしまう。ダンゾウ本人は「木ノ葉隠れの里」が大切なんだと思ってると、僕は思います。でも、実のところ、ダンゾウは「木ノ葉隠れの里」を大切に想う自分の気持ちが大切なのよ。それが「オレが!!オレが!!」の正体。

ま…それを「偽善」だと思うのだけど、ダンゾウにはダンゾウの「正義」というものがあるのであまり突っ込めません(笑)。今、「兄系」「弟系」の戦いが佳境に入り、世界を眠らせるか、否かの瀬戸際にあります。結果的に勝った方が「正義」で良いと思うんですFA。世界を眠らせたら「兄系」が正義だし、ナルトがサスケと新しい地平を開けたなら、それが「正義」になると思うんです。でも「正義」を考えると『NARUTO -ナルト-』は見えて来ないと、僕は思うんです。でも、僕は人間だからそれじゃ納得できないので、「好き」「嫌い」かで感じる様にしていまして、ダンゾウは大嫌いです(笑)。トビなんかもっと嫌いです。でもマダラは好きだな…。イタチは大大大好きでーす(笑)。

「…それなら話は早い…
ならオレがうちは一族の者で
木ノ葉とうちはに憎しみを持つことも
しってるってことだな」(お面の忍)

ダンゾウの粘着質な感じといい、トビの狙うものって、恐らく一致してて、「写輪眼」なんだと思います。「うちはの石碑」があって、「兄系・うちは」「眼」の大切さを説いておりまして、そのような非道を潜りぬけると、どのように素晴らしい「瞳力」が得られるかを説いてる訳です。それに心酔する二人ですから、兎に角、より多くの「写輪眼」が欲しいのです。だから、「うちは虐殺」を画策するのです。大義名分はどうあれ、彼らは「写輪眼」が欲しい訳です。「写輪眼」の数とは「結果」の数であります。つまり、イザナギです。それが、ダンゾウの「イザナギユニット」だったと思います。あれを組み上げたのは大蛇丸でしょうから、相当、「兄系」を馬鹿にしていたんだと思います(笑)。

あんな効率の悪い闘い方など普通はしません(笑)。それでもダンゾウがイザナギを使いまくったのはそれが「六道の力」だからです。それは六道仙人こそが忍者・忍界の頂点であり、神だからです。ダンゾウは神・六道仙人に成りたかったのです。それらが「うちはの石碑」に記してあって、うちは一族のクーデター然り、トビの溜め息然り、その文言を成し遂げる為に「正義」を尽くしてるだけでありまして、それを知らぬ者に理解などしようがありません(笑)。でも、その真面目さが僕は嫌いです。どんだけ有り難い石碑か知りませんが、何で自分で考えないのか理解できません。トビにしてもダンゾウにしても、どんだけ真面目というかバカ正直なんでしょうか!?(笑)。

イタチは死んでからだけど、その「過ち」に気付いたんだと思います。「兄系」の才能とか運命とか、血とか能力に縛られる人生が如何に下らないか。それに気付けたから、イタチはサスケに「愛している」と言えたのではないでしょうか。基本、「うちはの石碑」とは「愛」を否定するプログラムなのでしょう。「愛」よりも「力」を求める仕組みなのです。それは「兄」が開いた悟りだったのかも知れません。しかし、それを後世に遺したのは明らかに六道仙人であります。それは「兄」の考えを反証させる為でしょう。どうしても教えられない事だってある。親としての六道仙人の悩みだったのかも知れません。しかし、イタチはこうして悔い改める。それがサスケに確かに通じたのです。

「…イタチ…最後に約束しろ…

サスケの事は頼んだぞ」(フガク)

きっと、同じ「過ち」にフガクとミコトは気付き、自分の「過ち」をイタチに正させた。それがフガクとミコトの「うちは虐殺」だったのかも知れません。この時、フガクとミコトが示す、イタチに対する距離感というか尊敬に近い理解は、どうしてもよそよそしく感じられて、イタチが余所の子としか、僕には思えんのですが、イタチはサスケの「兄」であり、サスケはイタチの「弟」で良いのだと思います。フガクもミコトもサスケが自分の命よりも大切だったからイタチに殺される事を善しとし、サスケを任せられたのです。この時。この場でフガクとミコトに介するのがサスケであれば…イタチはその可能性を呪ったのです。それは決してイタチには出来ない関わりだったから。

イタチの「後悔」というものは、その関係性の濃さに起因するでしょう。フガクは決してサスケに「優しい」とは言わないと、僕は思うんです。そう言ってサスケにされるような事もなかったと思えるんです。イタチのにはそういった悲喜交々が混ざっているように僕には思えます。そう考えると、黒くなって来ませんか(笑)。そうやって迷えばいい。惑えばいい(笑)。その上で「愛している」とサスケに告げたイタチの想いを、もう一度考えて欲しいです。そして、サスケの混乱を考えて欲しいです。もう何が何だか判らなくなります(笑)。そのくらい、イタチの「一言」はいろんな気持ちを含んでいます。それはイタチがこの期に及んで「瞳力」に縋ったのと強ち無関係でもないでしょう。

そうまでしてイタチが伝えたかった想いを、僕らも咀嚼しないといけないでしょう。ぶっちゃけ、イタチはサスケには少なくとも自分と同じ轍失敗は踏んで欲しくないと思ってる筈です。きっと、自分とは違う生き方をして欲しいと願っている。そして、その期待とはナルトの存在に大きく変えられたものだと思います。イタチはナルトに触れて「こういう生き方もあるんだ」と触発されたのではないでしょうか。その明るさ。大らかさ。温かさ。イタチはナルトに多大な期待を寄せています。そして、サスケに再起できる余地を与えようともしています。まだ間に合う。それは今にも消え入ろうとする自分だけではない…のかも知れません。イタチは確かに「心」を感じ行動しているのだと、僕には思えてならないのです。

第590話「お前をずっと愛している」
ナル×ジャン ケルベロス

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