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第607話「どうでもいいんだよ」③

 
「遅いぞオビト!」(仔カカシ)

「やっと来たね…
キミがオビトか」(ミナト)

「待ってたよ」(リンちゃん)


<ハァ><ゼェ>「ギリか…」(オビト)

「大遅刻だよ!」(仔カカシ)

「もう自己紹介は終わってる……
後は君だけ」(ミナト)


「オレは火影になる!!

うちはオビトだ!!

んでもってオレの火影岩には
トレードマークのゴーグル
さらに写輪眼もしっかり彫ってもらう
…それで他里にニラミきかせてやんのだ!!

写輪眼でメンチきってる
オレの火影岩にビビって
ここには手が出させねーよーにな!」(オビト)

「そんなのは火影になって
写輪眼を開眼してから注文しろ…
だいたいゴーグルしてたら
写輪眼は彫れないだろ!」(仔カカシ)

「ゴークルの上から彫ればいいだろうが!」(オビト)

「それだと
目が飛び出てるみたいになるね…

プッ」(リンちゃん)

「とにかく
オレと同じ夢持ってる
部下ができてうれしいよ
今日からキミの上司になるミナトだ
よろしく!」(ミナト)

「オウ!!」(オビト)

(ミナト先生……)(トビ・オビト)

(もう…こんなことは……)(トビ・オビト)

(こんな世界は……)(トビ・オビト)

(どうでもいいんだよ)(トビ・オビト)

きっと、木ノ葉隠れの里では上忍が隊長となり新しい班編成を執る時、こんな風に「自己紹介」をする習わしがあるのでしょう。オビトはお約束の遅刻をブッコキ、その上でこの大口を叩いた…この場に臨場するカカシは空かさず突っ込み(リンちゃんもソフトに突っ込んでます)を入れてますが、この体験が後にカカシ班(第七班)を結成する折りに行った「自己紹介」(まっカカ…其の弐)で、カカシが迸(ほとばし)らせた感慨の種だったかと思うと、何だか目頭が熱くなって参ります。しかし、カカシはナルトがオビトみたいに語るのをよくあの程度で堪えられたものです。僕だったら、もう涙と鼻水でグジャグジャになって<ヒック><ヒック>なって一言も喋れなかったと思います。

そのくらい、若かりし日のオビトとナルトはダブります。僕の中では「弥彦→オビト→ナルト」のラインが出来上がっていて、もしも、ミナトじゃなくオビトを自来也が見るような事があったら、もっと違った未来があったかも知れない…と思ったりもします。ま…ミナトがどうこうじゃなくて、相性ってありますからね。特に先生と生徒って軽んじられがちだけど、相性って重要だと、僕は思っています。それに自来也が…と勢い書いてしまったけれど、弥彦だって死んでますからね(汗)。先生と生徒で少し補足すると、一年間、担任が変わらない日本の教育体制はマズイな…と、僕は思ています。担任の先生と反り(馬)が合わない生徒の居心地の悪さと来たら(汗)。かつそれが成長のゴールデンタイムで…。

そこで浪費される生徒の大切な時間を考えると、少なくとも一学期程度で担任は変えてあげた方が…と、僕は同情を禁じ得ません…って言うか、僕にはそういう実体験がありまして、理解力のない担任にどんだけ僕の才能の芽を摘まれた事か…(笑)。されど…教えるのも人。教わるのも人。導くのも人。導かれるのも人。失敗しない人なんていません。間違えない人もいない。人とは不完全な生き物なのです。生命そのものが不完全なのだとも言えましょう。人と人の関係性の中で「教育」というものがある限り、人の過ちはそのまま「教育」に反映されます。子供の可能性はそれこそ無限なのであります。それを伸ばすも伸ばさないも、側に居るオトナの胸先三寸なのだと、僕は考えています。

後はオビトの「運」なんだけど…人生って(つくづく)厳しいな…と思います。僕も子供の時はあったし、曲がりなりにも大人になりましたから、なるようにはなるんです。問題はその質に在るんだけど、やはり日本の教育は紋切り型で個性に欠けるように思います。その代わりに平均的な開発は得意で、ま…一長一短はありますね。でも、僕みたいな発達が歪な子には向きません罠。しかし、そんな被害者意識を心の中に芽生えさせて育てても自分は育ちません。自分の与えられた時間の中で如何に主体性を持って行動できるか?考えられるか?が重要になると思います。でも、それを幼い子供達に要求するのは酷な話だから、やっぱここは子供達の近くに居るオトナの責任が重要になると思うんです。

だから、オビトの不幸とはミナトではなく「うちはマダラ」が側に居た事なんだと、僕は思うのです。オビトは「うちはマダラ」の直系の子孫で、万華鏡写輪眼を開眼し得る資質を持っていました。「柱間の細胞」も拒絶反応なく受け容れ、「木遁チャクラ」(陽遁チャクラ)の発生が可能でした。しかし、「うちはマダラ」は全ての可能性をオビトに託さずに単なる”使いっぱ”として役割を与えただけでした。それは長門も動揺で、うずまき一族の末裔として赤い髪を有し、輪廻眼を備えた「六道」であるにも関わらず、「半蔵事件」で両脚を失い、外道魔像との契約で「うちはマダラ」の意志を結晶化した杭を背中に打ち込まれ、その可能性を極端に制限されたものと思われます。

それは「うちはマダラ」が自分でやりたかったからなんだと思います。「うちはマダラ」は自分の欲を満たす為にオビトや長門を使い捨てようとしたんです。僕は大人が子供にこんな事をしてはいかんと思うんです。何が悲しくて大人が子供を踏み台にできるんでしょうか。何で自分のやり残し(←欲)を子供らに託さないのでしょうか。僕は実際、それと似た先生と接していましたから、別に不思議でもないんだけど、人の悪意というものは何処までも浅ましい。しかし、それを感じようと子供らに、それを訴える表現力や行動力が備わっていないのです。しかし、子供らは感じている。その事実を大人は重く受け止めるべきなんだけど、「うちはマダラ」の場合は確信犯の糞ヤローだから論外です(笑)。

だから、「九尾事件」を起こし、かつての師であるミナトに尾獣玉を向けるオビトが(こんな世界は……どうでもいいんだよ)と思っちゃうのは至極当然というか仕方ない事でもあるんです。オビトは「滅び」を望んでいる。僕は今回のエピソードでそう感じたんだけど、それはみんな「うちはマダラ」が悪いです。オビトに「それを言っちゃぁ〜お仕舞いよ!!」みたいな考えにしちゃったのは「うちはマダラ」ですから。まだまだオボコイ少年・オビトにそうさせた「うちはマダラ」と、それが為に発せられた九尾の尾獣玉を真正面に受け止めた(実際は飛ばしたんだけど、気持ち…気持ちね。それにミナトはトビを真っすぐに睨んでますよね)ミナトは明らかに違うオトナだと思います。

でも、実はオビトも「うちはマダラ」に救われてから急速に知恵を付け、「うちはマダラ」の考えとは違った結末を模索しているようでもあると思われます。少なからずオビトと「うちはマダラ」には温度差があります。八尾と九尾の封印が完了する前の代用品での外道魔像の性急な解放もその一例と言えましょう。僕はそれがオビトの主体性の一端ではないかと期待しています。しかし、それでオビトがトビとして”暁”でやっている事が正当化されることではないけれど、オビトが主体性を持って何かを考えている事実は意義があると思うのです。それでこそオビトはオビトなりに必死に生きてると言える。しかし、事がこんなに拗れたのは大人の所為なんだと思うのです。僕らはキモに命じるべきだ!!

「どうでもいいんだよ」

……なんて、子供らに言わせてはいけないと。

ケルベロスの心の闇を掘り返しつつ続きます(笑)。



第607話「どうでもいいんだよ」④追記(121103) | BLOG TOP | 第607話「どうでもいいんだよ」②

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